星降る庭で...53



翔愛の世界はとても狭い。
愛綺国に居た時は狭くて薄暗い部屋から出る事もなく、極希に訪れる父と、偶に来てくれる兄だけだった。
その他に翔愛の生活を影から支える、と言うよりは必要最小限の事だけをこなしていた従者が数人。しかし彼らは翔愛の前に姿を現すことは滅多になく、要するに愛綺国での翔愛の世界はたった2人によって成り立っていた。

羽胤国に来てからもあまり翔愛の世界は広く無い。
愛綺国よりはとても広がったけれど、それでも翔愛の側に居るのは王である翔雅、その執事である天丸に主治医の椛の3人。部屋も明るくて綺麗になったが、それでも翔愛の世界は狭かった。

しかし、ここに来て突然に翔愛の世界は広くなってしまった。
言うまでも無く婚礼準備の為なのだが、あまりにも急に変わってしまった世界に元から順応力の無い翔愛には酷く慌ただしく、疲れる日々になってしまったのだ。

怖い顔の倫斗が訪れてからと言うものの、時間に急き立てられる様に一日はあっと言う間に終わってしまう。夕暮れにはもうへとへとになって、喋る事もままならない。体力等全くと言って良い程無い翔愛だ。行動範囲は広がっていないのに見知らぬ人が側に居る、翔愛を嫌う人が側に居ると言うだけで疲労は重なってしまう。

それは、羽胤国に来てすぐの頃を思い出させるけれど、それでもあの辛い時には表面上でも優しい人が居た。けれど、今は翔雅も天丸も忙しいらしく翔愛の側に居る事はあまり無い。椛も健康になった翔愛の元に訪れる時間は少なく、翔愛を嫌う倫斗だけがずっと側にいて、どうしても疲れてしまうのだ。

「読み書きが出来ないのであれば出来るまで覚えましょう。いくら何でも王族が読み書きが出来ないと言う訳にはいきませんからね」

昼下がり。
今までは翔雅の側で絵本を眺めて幸せな気持ちになっていた穏やかな時間だった。けれど今はリビングのテーブルに齧り付いて倫斗に読み書きを教わっている。読む本もあの綺麗で優しい絵本では無い。翔愛には難しい本ばかりだ。

「翔愛様、のんびりしている暇はありません。これからも読み書きは役立ちますからしっかり覚えて貰わないと困ります」

この世界で使われる言葉はどの国でも一緒だ。世界共通言語として一般的に広まっているそれは、けれど翔愛には酷く難しいものだ。
簡単な読み書きなら出来るが応用は難しい。けれど覚えるのは嫌いでは無い。だから必死になって文字を覚えるべく読み書きを繰り返しているのだが、そんなにすぐには上達しない。
それが倫斗には苛立たしい事に思えるらしく、相変わらず翔愛に対する視線は冷たい。けれど、厳しいだけあって倫斗の教えは正確で、容赦ない。必死になって勉強する翔愛に、出来た事を当たり前の事だと言い切る先生に、やっぱり心は痛んでしまう。

そして、ここ最近の慌ただしい生活が翔愛の身体にも痛みを与えていた。
誰にも言えないけれど、この忙しい日々が始まった日から翔愛の身体は悲鳴を上げ続けている。それは歩く事に慣れていない足だとか、動くことに慣れていない腕だとか。・・・急激な動きに耐えられない足首のわっか、だとか。身体の全てがじくじくと居たんで翔愛を攻める。何より足首のわっかがどの痛みよりも強く翔愛を締め付けている。

でも、これは誰にも言えない事。言ったら駄目な事。
そう思うから翔愛は誰にも何も言わず、ただ痛みを耐えて慌ただしい日々を過ごしている。

翔雅も天丸も翔愛の変化にはまだ気づいていない。翔愛が元から痛みに強いと言う事もあるが2人とも忙しすぎて翔愛の事まで気が回らないと言うのが本音なのだ。
翔雅とも夜、眠る前にしか顔を合わせないから優しい夜の色は翔愛の顔色の悪さも隠してくれる。昼間ずっと一緒に居る倫斗は翔愛の元の顔色なんて知らない。だから、翔愛の痛みは誰にも分からずにいるのだ。

かりかり、と羽根ペンを不器用に持って白い紙に文字を綴っていく。難しい言葉だけれども覚えなければいけないのだから、翔雅の側に居る為には。
そんな翔愛の姿を見て流石の倫斗も我が大人気の無さを少々反省する。
翔愛が羽胤に来た理由も、翔雅の傷も知る倫斗としてはどうしても翔愛に親しみを持てはしないが、だからと言って毎日目の前で必死になっている純粋無垢な子供のを苛めたい訳では無い。たぶん。

「少し休憩しましょうか。あんまり詰め込みすぎるのも良く無いですからね」
「倫斗さま・・・」

本当は呼び捨てで呼べと最初に言われたのだが、相変わらず誰かを呼び捨てで呼ぶ事は翔愛には出来ない。それを初めの頃こそ嫌がっていた倫斗だったが今では苦笑混じりに許してくれている。厳しい水色の視線が少しだけ柔らかくなっていくけれど、やはり厳しいままだ。
呼ばれてじっと倫斗を見上げれば水色の瞳が少しだけ細まった。

「翔愛様は頑張っていると思いますよ。でも、この国に、羽胤に嫁ぐのですからやはり無理しないと駄目ですね」
「・・・はい」
「努力は買います。けれど厳しいことを言う様ですが、時間が足りません。何より貴方には何も無い。婚儀まで、いえ、婚儀が終わってもビシビシいきますよ」
「はい」

にやりと人の悪い笑みを見せる倫斗にまた真面目に頷く。怖い人だけれども、真っ直ぐに翔愛を見つめて、厳しいけれど的確な意見をくれる倫斗は確かに翔愛を嫌っている人だけれども、ほんの少しだけ、見づらい優しさを感じる時もあるのだ。
それは翔愛の思い過ごしかも知れないけれど、そう思いたい。
休憩と言いながらもソファから動こうとしない倫斗にじっと視線を合わせながらそう思っていたら何時の間にやら、ずかずかと足音高く、翔愛には聞き慣れた大きな足音がやってきた。

「いいや、そんなに急に詰め込んでも疲れるだけだ」
「・・・椛殿」

嫌そうに呟いた倫斗が部屋に入ってきた椛を睨んだ。それは翔愛を睨むよりも怖い顔で、思わずびくりと肩を震わせてしまえば苦笑した椛が両手に持った銀の盆をがちゃりとテーブルの上に降ろした。

「天丸が忙しーって言うから俺がお茶運びだ。ほれ、倫斗もそんな顰めっ面してねーでテラスの準備しろ。その間に姫さんは健康診断だ」
「分かりました」

健康診断と言われては倫斗にはどうする事も出来ない。溜息を落としながら盆を持ってテラスに移動すると椛はソファでは無くカーペットに直接ぺたりと座っている翔愛の前にかがみ込んで、小さな顔に手をあてた。相変わらず小さな顔だ。椛の手が酷く大きく見えてしまう。

「どら、調子はどうだ?」
「ちょうし、ですか?」
「日焼けも良くなってきたな。どうだ?少しは外に出てもいいぞ」
「ほんとうですか?」
「ああ、但し昼間は避けた方が良いけどな。出るなら朝か夕方だ」
「・・・でも」
「翔愛様には覚えて頂く事が山ほどありますから外に出る暇はありません」

そこで翔愛の顔が曇ると同時に戻ってきた倫斗が厳しい声を出す。どうしても翔愛に厳しくしたい様子の倫斗に椛は立ち上がって両手を腰にあてた。

「固い事言うなって。それに勉強なんざ後でも良いだろうが」
「そう言う訳にはいきません。翔愛様は羽胤の王の隣に立つ様になるんですよ」
「別に翔雅と同じ仕事しろって訳じゃねぇだろうが」
「翔雅様、です。椛殿、不敬罪が適用されますよ」
「今更何言ってんだよ。そんな固い事言ってたらこの城の半分以上が不敬罪だぜ?」
「・・・・ともかく、邪魔をしないでください」
「へいへい。でもな。俺も姫さんの主治医でまだ健康診断中だ。お前、俺が呼ぶまでテラスに出てろ」

少しだけ声を落として倫斗を睨み付ける。そうすれば医者の椛に逆らう倫斗では無い。しぶしぶ、と言った風にテラスに出るのを確認して椛は厳しい視線をそのままに翔愛を見下ろした。
きょとんとして椛を見上げるその真っ直ぐな視線に、いつもなら笑みを返す椛だが今は真剣な表情のまま、再度翔愛の側にしゃがみこんでじっとその小さくて美しい顔を、睨んだ。

「何処か悪い所があるな?」

それは問いかけでは無く確信の言葉だった。ここ最近気になっていた翔愛の顔色には気づいていたのだ。しかし忙しさと倫斗と言う邪魔者もあり、翔雅を信用したくもあり、様子を見る事にしていたのだが全く改善されていない。とうとう我慢できずに押しかけた椛だが、思いの外状況は悪そうだ。小さな顔の少しの変化も見逃さない様に覗き込むが、言われた言葉に心当たりがあるのだろう。翔愛は真っ直ぐに見つめていた視線を下に降ろしてきゅっと唇を噛んだ。





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