next will smile
01.07...愛しい空気




かつて、澤里颯也と言う一人のモデルが存在していた。
190cmを越す長身に、鍛えられた身体で猛々しい印象の中にも何処か繊細な、折れてしまいそうな細さを持つ印象を人に与え、カメラの前に立てばその身体と整い過ぎた容姿に綺麗な笑みを浮かべ万人を虜にしていた。
彼を撮りたがるカメラマンは数えきれない程で、彼を使いたいと願うデザイナーの数は増える一方だった。
その結果、国内はおろか世界の一部でも彼の名前を知らない物は居ないと言う程に有名になり、マスメディアはこぞって彼を取り扱い、モデルであるにも関わらず澤里颯也と言う人物はそれ以上の価値観で人々に憧れの視線で見られていた。
しかし、そこまで彼を取り上げる輩が居たにも関わらず彼のプライベートは完璧に隠され、モデルである彼以外の本当の姿を知る人は極々限られた人間だけだったが。

ともかく、澤里颯也と言う人物は恐ろしい程に有名で、輝かしい経歴と共に一生をモデルと言う職業で貫くものだと誰もが信じていた。

しかし、ある日突然、彼は世間から姿を消してしまう。
何の前触れも無く、けれど途中で放り投げた仕事は無く、不自然な程に綺麗に姿を消してしまった。
一時はマスコミもこぞって彼の行方を追ったのだが、誰にもその後の彼の消息を暴き出す事が出来なかった。

それがまさか苗字を変えて、と言うか婿入り(?)して小さな雑誌会社の社長をしているなんて世の中馬鹿にしているとしか思えんぞ。と、暗室の中、おやっさんは銜え煙草をゆらしながら出来上がった写真の出来映えを眺めた。

四角い紙の中に映された恋人の戯れ。
様々な色の布に身体を隠しながら愛おしげに触れる指先。
絡め合う腕に情熱的な口付け。
相手を労る様な愛撫に見ている方が恥ずかしくなる程の抱擁。
その全てを映した写真と言う名の紙切れにおやっさんは苦笑いを浮かべて溜まった煙草の灰を床に捨てた。

世間から姿を消して数年も経つのに褪せる事の無いモデルとしての立ち振る舞い。
彼独特の輝くオーラが全く消えていないばかりか、愛しい恋人を手の中にした写真は以前の澤里颯也以上の魅力に溢れている。
重ねた年齢もあるだろうが、それでも素晴らしい出来映えになったとおやっさんはもう二度と撮る事の出来ないと思っていた人物を取れた嬉しさで満足気に、今度は溜息では無く、やり遂げた満足感から出る息を吐き出した。

そもそもおやっさんは風景を専門とするカメラマンで人物は撮らない。
けれど、誰もが憧れた澤里颯也と言うモデルに惚れ込んで、風景しか撮らないと決めた信念まで曲げて一人の男を追いかけ廻してカメラに収めた。
その後、次第に気が合って、一人の友人としての付き合いを始めた。
だから、今でもおやっさんがカメラに収めるのは風景だけだ。
後にも先にも人物は澤里颯也と言う男だけ。そう決めていたからこそ、颯也がモデルを辞めたと連絡をよこした時にもう一生人物を撮る事は無いと思っていた。その辞めた理由も大雑把にだが聞いているし、だからこそもう二度と彼がカメラの前に立つ事は無いと思っていたのだが。

「人生、何があるかわからんね」

たまには嬉しい事もあるもんだと、暗室の灯りを通常の灯りに切り替えた。
残り少なくなった煙草を灰皿に捩じ込んで暗室の扉を開ける。
「おう。終わったぜ」
出来上がった写真を束にして封筒に入れながら扉の向こうで待ち構えていた榎戸に差し出す。
締め切りが迫っているからとおやっさんの作業場で待っていた榎戸はにっこりと微笑んで封筒を受け取った。
「ありがとうございました。これで落とさずに済みます」
満足気な笑みを浮かべている榎戸におやっさんも笑い返して肩を竦めた。
「お前さんも策士だな。嘘を吐いてまででもその写真、使いたいんだろ?」
そもそも最初からこの恐ろしい笑顔の男が仕組んだ事だったのだ。
なにせ、どう考えても突然撮影したい等と言う話が通る訳が無い。
風景写真家であるおやっさんのスケジュールは遅くとも半年も前に確認しなければ日本国内に居る事は無いのだから。
「嘘なんて吐いてませんよ。実際モデルを引き抜かれた事は事実なんですから」
ただし、それが昨日今日の話と言う訳では無いけれど。と言外に告げて榎戸は受け取った封筒を大切そうに持っていたアタッシュケースに仕舞い込む。
「知ってるのは?」
「私だけです」
くすりと声を零して榎戸は音も立てずにアタッシュケースを閉じて作業場を出ようとおやっさんに背中を向けた。その背中に向かっておやっさんは声をかける。
「ま、俺は颯也撮れたからいいけど、バレたら後が恐いんじゃねーのか?」
「それは覚悟の上です。それでも私は彼の才能に惚れているんですよ」
存在するだけで全ての人間を惹き付ける、生まれながらの存在感。
それを活かす最大の職業は間違っても小さな雑誌会社の社長の椅子では無い。
そう断言している榎戸は次のおやっさんの言葉を待たずに作業場から消えた。

「騒ぎにならなきゃいいけどな」
その消えた背中に向かっておやっさんは苦い言葉を投げて、幸せそうに写真の中に収まった颯也と、その恋人の笑顔を思い出した。





...back...next