01.06...愛しい空気
|
しんと静まったスタジオ内。 ようやく嵐が去ったとばかりにほっと息を吐いた颯也は同じく息を吐いた綾宏と視線を合わせて、2人同時に苦笑いを浮かべた。 「悪いな。巻き来んじまって」 未だ微かに残る、撮影と言う言葉とそれに係る様々な傷の痛みに颯也の表情は晴れない。 その昔、まだスポットライトを思うがままに浴びていた頃、取り返しの付かない失態を犯して傷を付けてしまった何よりも大事な人。 微かに浮かぶ想い出と言うにはあまりにも痛い記憶がシャッター音と共に蘇る。 「何言ってんのさ。楽しいよ?」 ほんの少し、瞳の中に痛みを滲ませた颯也に綾宏は両手でもって颯也の顔を包んでふわりと微笑む。 何て事はなかったのだと、微笑みの中に言葉を浮かべて、じぃっと見つめて、微笑みのままに颯也の鼻先にちゅっと唇を軽く乗せた。 「滅多に体験出来ないじゃない。撮影なんてさ。それに、」 未だ、何処かすまなそうな、浮かばない表情に重ねて唇を落として。 「人前でいちゃつけるなんてそれこそ滅多に出来ないでしょ?」 今度は微笑みに艶を含ませて、ふぅわりと、微笑んだ。 「お前らなぁ、もうちょっと恥じらいとか無いのかよ」 いつまでも自分達の世界に入り込んでいる2人にようやく渋い声が掛かって、眩しすぎる照明の光を淡い色に調節したおやっさんは照明の中央に居る2人に顎をしゃくって、煙草を銜えてニヤリと不敵な笑みを見せた。 「ま、いいけどよ。そんじゃま、マジ撮り行くぞ」 一口だけ、大きく吸い込んで、まだ火を付けて間もない煙草を灰皿に捨てたおやっさんはカメラを構えて、紫煙を照明に向かって吐き出す。 それを見て颯也が表情を改めて、普段のにまっとした笑みを浮かべて綾宏を抱き寄せた。 「へいへい。勝手にやってるからな」 この場合、勝手にやると言ったら本当に勝手にやるのだ。 基本的におやっさんは人物を撮らない。よって、人物に対しての注文は付けない。 ただ勝手に動いている人物の、この瞬間、その瞬間を撮るのだ。 だから、勝手にすると言ったら勝手にしないと却って怒られる。 「颯也?」 すい、と目を細めて見つめてくる颯也に首を傾げた綾宏だが、何もしなくて良いんだと耳元に囁かれて思わず力が抜けてしまう。 崩れ落ちそうになった身体をしっかりと支えてもらった綾宏に、颯也は楽しそうにもう一度、耳元で囁いた。 「入れられねーけど、じっくり楽しもうぜ」 あまりにも楽しそうに告げられたとんでもない言葉にやっぱり今から逃げるのはまずいかなぁと、折角の良い気持ちをしぼませた綾宏は何度目か分からない溜息をこっそりと落とした。 まるで間接照明の様な光に沢山の色の海。 その中で溺れる様に綾宏は荒い息を吐いた。 「颯也…」 はぁと息を吐いて背後に居る颯也を呼べば、声では無く手の動きで返事が返されて綾宏は背中を捩らせる。 徐々に荒くなってしまう自分の息に、まだ全然余裕のある颯也の態度。 何だかとても悔しくて、仕返ししてやろうかとも思うのに、時折耳に入るシャッター音に理性を戻されてしまう。 今は真っ青な布を身体に巻き付けられて正面から颯也に抱きしめられている。 「あや、もう少し手を…」 撮影が始まってから颯也からの指示は全て耳元で囁かれる甘い音と、それに加えて手や唇の動きで綾宏を煽っているのだ。 非常に、非常にタチが悪い。 人前で理性を無くす事も出来ず、最後までなんてもちろん無理で。 しっかり反応してしまっている自分がとても恥ずかしい生き物みたいで、悔しい。 「颯也、もう、やだぁ…」 涙の浮かんだ瞳で位置をずらしながら綾宏の腹の辺りに顔を落とした颯也に懇願してしまう。 だってもう無理なのだ。 幾ら何でもこんなの酷すぎると言わんばかりに颯也の髪に手を差し入れる。 まるで行為の最中の様な空気なのに、全然違う空気が酷く恨めしい。 このまま何もかも忘れてしまいたい。そう思うのに。 「あや、もう少し我慢して」 いつの間にか綾宏と同じ様に、だけれども黒の布を纏った颯也が目の前に居て、そっとキスされる。 何度も何度も繰り返される浅い、舌の絡まないキスに焦れて無理矢理颯也の舌を絡めとれば痛い程に吸われて、余計に熱を持ってしまう。 「ぅん、ぁ…」 もう耐えられない。 颯也が駄目だと言うなら無理矢理にでも襲ってやりたい。 絡めとられて翻弄されて、両手で縋って抱き返されて。 もう、駄目。 「そう、や、ぁ…」 完全に色の変わった綾宏の潤んだ瞳に颯也は苦笑いを浮かべて、それから酷く楽しそうに唇を歪め、目を細めて、にたぁ、と笑った。 「おやっさん、ちと休憩入れてくれ」 視線を綾宏から話さずに告げる颯也に、撮影中一言も何も口に出さなかったおやっさんは、その笑みと怪しい色を出す綾宏を見比べてから、盛大に溜息を吐いた。 「もう終わりだ。これ以上は俺がお断りだ。とっとと帰れ」 |
...back...next |