feeling heart to you
29




未練たっぷりで、でももう側には居られないから、僕はゆっくり立ち上がって、なるべく音を立てない様にして一留の部屋を出た。

久し振りに入った僕の部屋は静かで、寂しい。
何の音も無いけど、今はそれがちょっとだけ嬉しい。

涙は止まらないけど、早く着替えてここを出なきゃいけない。
これからどうするかなんて分からないけど、これ以上ここに居ちゃいけないから。

何度も何度も一留に着せてもらった浴衣を脱いで、久し振りの洋服に着替える。
何だか久し振りすぎて、洋服が冷たくて、重く感じた。

脱ぎっぱなしの浴衣と比べて、何て冷たいんだろうって思ってしまう。
服なんて、なんでも一緒なのに。
それなのに、旅館の名前の入ってる白い浴衣がすごく暖かく見える。

これ、持って行ったらだめかな?

脱いだばっかりだからまだあったかい浴衣。
そっと手に持って抱きしめたら止まらない涙が余計に止まらなくなっちゃった。

持っていったらおばさんに怒られちゃうかな?でも、持っていきたいな。
もう着る事は無いだろうけど、ずっと持ってたいな。
浴衣を見ればきっと一留を思い出せるから。だめかな?

いいや、持っていっちゃえ。
ごめんね、おばさん。ごめんね、おじさん。

ごめんね、一留。

くしゃくしゃの浴衣をそのままバックに詰めて、僕は誰にも見つからない様に旅館を出た。


もう来る事は無い旅館。
あったかい旅館。
一歩出た途端に僕は寒くなって両手で自分を抱きしめた。



とぼとぼと歩きながら駅に向かう僕の涙はまだ止まっていない。
涙腺が壊れちゃったのかな。それでもいいけど。

まだ朝日も出ていない時間だし、車も、もちろん歩いてる人も居ないから誰にも見られない。
これでいいんだって、何度も自分に言い聞かせて、看板を見ながらようやく辿り着いた駅の前で僕は涙を止めた。

流石に何年も芸能界なんて所に居るから僕は自分の意志で涙を止める事も出来る。
今はそれが辛いって思うけど、泣きながら電車に乗る訳にはいかないからごしごしと両目をこすって、パチンって頬を叩けばそれで終わり。
きっとすごい顔になってるだろうけど、構わない。

駅に入って時刻表を見ればもうそろそろ電車が来る時間。
ここの電車はどこで切符を買うんだろうって思ってきょろきょろしてると切符売り場が無いことに気付いた。
ひょっとして電車の中で買うのかな?
ロクに電車も乗った事の無い僕はそんな事すら分からない。
おまけに駅には誰もいなくて、改札だと思われる入口には寂びた棒が立ってるだけ。
何で誰も居ないんだろう。でも誰にも会いたく無いから丁度良いかもしれない。

遠くから電車の音がする。もう来るみたいだ。
重たいバックを抱えてよろよろとホームに出れば小さな電車がゆっくりとこっちに向かってくる。

この電車に乗ればもう僕は一留とお別れ。
もうとっくにお別れだけど、やっぱり哀しくて、痛い。

ずっとずっと一緒に居たかった。
もっといろんな事をしたかった。
もっと、もっとお喋りたかった。

でも、もうそれも終わり。
僕は一留の側に居ちゃいけないんだから、お別れ。

せっかく止めた涙がまたじんわりと浮かんでしまう。
今泣いたらきっと止められない。
だから僕はなるべく何も考え無い様にして、ゆっくりと目の前で止まった電車に目を止めて、ドアが開くのをぼんやりと眺めてた。

これから、僕はどうするんだろう?
家に帰って、峯川さんと一緒に記者会見するのかな?
そうしたら、僕はどうなるんだろう・・・・。

もう一留に会う事はきっと無い。
それだけが今の僕に分かっている事。

だって僕は一留の名前しか知らない。
住所も電話番号も何も知らない。
知ってるのは、一留の微笑みと笑い声と暖かい腕の中と優しい唇の感触。
とても大切な、僕にとってはそれが一留の全て。

けれど、もう一留に会う事は無い。

自分から離れたくせに僕はまだ一留の事を考えてる。

初めてあった温泉の一留の顔。
びっくりして、それでもすぐに笑ってくれた格好良いのに綺麗な一留の表情。
僕の声が出ない事を心配してくれたけど、普通に接してくれた優しい態度。
一留の傷の事を聞いた夜。
一緒のお布団で眠った日々。
毎日散歩して回った小さな街。
何回も一緒に入ったお風呂。
こっそりとおかずを交換してはおばちゃんに呆れられたご飯。
結局一度も自分で着る事は無かった白い浴衣。
ちょっとだけ旨く歩ける様になった下駄。
夕暮れが綺麗に見えた砂浜。
海の風を感じて、一留から何回もキスを貰った暖かい腕の中。

どうしても思い出すのは一留の事ばかり。

優しい笑顔。
楽しそうな笑い声。
暖かい微笑み。

沢山の一留が僕の中に居て、僕は沢山の一留を思い出して、ふと、気付く。
それは、一留は僕が歌を歌っている事を知らないんだって。
僕の声が出なかったから歌う事なんて出来なかったけど、声が出る様になってから僕はちょっとだけ、一留に僕の歌を聴いて欲しいって思ってた。
それを言い出せなかったけど・・・・聞いて、欲しかったな。
下手くそだけど、一回くらい、聞いて欲しかったな。

どこまでも、僕の考える事は一留の事ばかりで、自分から離れた癖にって思うのに、どうしても思い浮かぶのは一留の笑顔だけだった。






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