next will smile

02.06...ぬくもり




ふわふわで、ほわほわに名前が付いてしまった。
それも、今まで充の中には無かった名前。
とても、とても恥ずかしい名前で、照れくさい名前。

『好き』

それは短い言葉なのくせに、重い響きで、けれど、ふわふわでほわほわなのは変わらず、充の心の奥底にどっしりと構えてしまった不思議な気持ち。

その『好き』と言う気持ちは遼太郎に向けられているのは間違いないのだけれども、この『好き』がホンモノの好きかどうかは充には分からない。

何故ならば、充にとっての『好き』はお酒であり煙草であり美味しいご飯であり、ちょっと好きかも、が保護者モドキである颯也であり綾宏でありその仲間なのだから、心の奥底に陣取っている、重たいのにふわふわでほわほわな『好き』と、それ以外の『好き』はどうにも比べようが無いのだ。

どうしたものかなぁ。

そんな気持ちを抱えて、ちょっとばかり胸に手なんか当てちゃったりしている充は、思いのほか、嬉しい気持ちになっていた。

何せ今まで生きていくだけで精一杯だったのだから、それ以外の、特に人に向ける『好き』と言う気持ちがこんなにも大きな物だなんて知らなかったから。

とは言え、これがホンモノなのか、ニセモノなのか、充には分からない。
経験が無いと言うのもあるが、その辺の恋愛感情はずっとずっと自分には縁の無い物だと思っていたから、全くと言って良い程にわからないのだ。

これが思春期で学生だったら仲の良い友達なんかに相談出来たかもしれない。
親しい親兄弟が居れば相談できたのかもしれない。

けれど、充はとっくに思春期ではないし、親兄弟も居ない。
いや、一応居るには居るのだけれども親と言う名前の付いた人達は遠くに居るし、何よりこんな相談を出来る程近い存在では無い。
もちろん兄弟も居ないし、こんな話を出来る友達も居ない。

・・・何だか俺、寂しい人なのかも。

そこまで考えて自分の人間関係にがっくりきてしまうが、今はそんな事でがっくりきている暇は無いのだ。

この気持ちが何なのか、とても気になる。
始めての気持ちだから、気になってしまうし、何よりその存在が大きすぎて重すぎて、心の中でどうするんだと言っている様な気がしてしまうから。

そして、惚れたと言っていた遼太郎もこんな気持ちになっているのかが気になってしまったのだから。

「どうしようかな・・・」
「充さん?どうしました?」

ひっそりと溜息を落として呟いた充の正面から優しい声が降ってきて、びっくりしてしまった。

「あーっとぉ、えへへ・・・」

それもそのはず。
今は、向い合せで座る居酒屋の座敷で遼太郎と呑んでいる真っ最中なのだ。
遼太郎ご推薦のこの店は、ほのかな間接照明のみで多少薄暗いものの、とても落ち着くし、何より完全個室で、酒も旨い。
何も文句を付ける所が無いばかりか遼太郎に感謝したい位の良い店なのだ。
それなのに、その感謝したい本人を目の間に、一人勝手に想像と言うか妄想に耽っていた充はちょっとあせって誤魔化しの笑みを浮かべて持っていた日本酒をくっと呑んだ。

相変わらず充の呑みっぷりは良い。
一気に日本酒を空ける充の杯に、遼太郎が次の日本酒を足しながら少し心配そうな顔で覗き込んできた。

「疲れてるんじゃないですか?仕事、忙しいんでしょう?」

注いでくれる日本酒の香りにふんわりと微笑む充はとてーもご機嫌だ。

「そんな事ないよ。遼太郎の方が忙しいんじゃないの?って俺遼太郎の仕事ってよく知らないや」
「あれ?言ってませんでしたっけ?んーじゃぁはい。俺の名刺です」
「じゃぁ俺のもあげるー」

程よく酔った酔っ払いが2人。
もう知り合ってしばらく経つのに、今頃名刺交換なんて、とは全く思わずに、真面目くさってぺこりと頭を下げて、名刺を交換した。

差し向いで名刺交換なんてサラリーマンみたいだと、一人で可笑しくなってくすくすと笑う充の名刺を見て遼太郎は少し目を見開いた。

「充さんて、アーツクルーズの編集だったんですか?俺、この雑誌好きなんですよ」

充の名刺は酷くシンプルで、会社名であり雑誌名のアーツクルーズと言う名前と充の名前しか印刷されていない。
元々アーツクルーズの名刺はそんな作りなのだ。
だから営業職である颯也や榎戸は住所や電話番号を印刷した名刺を別に持っていて、その名刺を渡されて初めて商談が進むのだ。

「そお?えへへ〜。でも実際の記事は榎戸さんとか颯也さんとかだよ」
「誰です?それ」
「んー。颯也さんが社長で榎戸さんがぁ・・・秘書?」
「何ですかその曖昧なくくりは」
「だってそうなんだもん。それより遼太郎も社長さん?」
「ま、一応そうです。って言っても俺はおやじの後を継いだばっかりでまだ5年目なんですけどね」
「5年もやってればりっぱに社長だと思うけどなー。あ、でも社長の仕事って想像できないや」
「俺も充さんの仕事想像できないですよ。まあ、俺の事より、充さん、最近忙しいんじゃないんですか?また顔色悪いですよ」
「え?そんな事ないよ。ここの所泊まり込みも無いし、午前様でもないから」

初めて貰った遼太郎の名刺を裏にしてみたり梳かしてみたり、と忙しく一枚の名刺をぺらぺらとしている充は遼太郎の質問に何気無く答えて、また遼太郎の名刺をぺらぺらと引っくり返しては遊んでいる。
だから、遼太郎の眉間に微かに皺が寄った事にも気付かなかった。

「充さん、泊まり込みって、会社にですか?」

思いもよらぬ厳しい声色にびっくりして顔を上げれば、声色通りの表情をしている遼太郎がいて充は驚いてしまう。
何で突然怒るんだろうとびくびくしながら遼太郎の言葉を待っていると、ややって、遼太郎は盛大に溜息を落として自分の杯をくっと空けた。

「普通の会社は泊まり込みなんて無いんですけどね」

どうやら会社に泊まり込み、がお気に召さなかったらしい遼太郎に充はああそうか、とぽんと手を鳴らして微笑んで、空いた遼太郎の杯に酒を足した。

「会社、アパートだから何でもあるんだよ。お風呂も布団もあるもん。遅くなっちゃったら泊まった方が便利でしょ?」

遼太郎が何に不機嫌になっているのか全く分かっていないから、また、へらりと笑って自分の杯を空ける。
けれど、その充の笑顔に遼太郎は深々と溜息を落として杯をテーブルに置いた。

「充さんの容姿で気軽に会社に泊まるって危険なんじゃないんですか?」

そうして、真剣な表情で切り出したのは、思っても見ない言葉で。

「・・・はぁ?」

思わず間抜け顔をしてしまう充だかが、遼太郎はいたって真剣だ。

「だって充さん綺麗だし、格好良いし、そりゃぁもちろん強いって事は分かったんですけど、それでも残業で疲れてる所を襲われなんてしたら、俺・・・」

いつもパリっとしたスーツ姿で、笑顔の眩しくて格好良い遼太郎。
ついさっきまで、そんな遼太郎を考えてぼけっとしていたのに、今の遼太郎は何だか変。
何を馬鹿な事を言っているんだ、の前に、ちょっとばかし視線が虚ろで、恐い。

「りょ、遼太郎?お、落ち着いて、ね?」

慌てて杯を置いてどうどうと遼太郎を押さえようとするけれど、遼太郎はずるずるとテーブルの向かいから這い出て来てしまって、そのまま充の側まで移動してきてしまった。

そして、がしっと充の両肩を掴んでしまう。

「充さんっ、俺、心配ですっ。そりゃー残業で遅くなって終電無くなったら会社に泊まるのが一番なんでしょうがっ、でもっ、でもっ」

すごく真剣なのに、目がウツロ。
これは、ひょっとしなくても、ただの酔っ払いなのだろうかと、やけに酒臭い遼太郎の息に充は目を見開いてしげしげと遼太郎を見上げてしまう。
けど、興奮している遼太郎はそんな事もおかまいなしに勢いのままでぎゅうっと充を抱き締めてきた。

「充さんが心配なんですっ、俺っ、俺っ」

あまりにも強い力で抱きしめられてしまってようやく充も今の状況を思い出して、慌てて遼太郎をはがそうとするけれど、酔っ払いの力は案外強くてどうにもならない。

「遼太郎っ、落ち着いてってばっ。何で俺があの人達に襲われなきゃいけないのさっ・・・じゃなくてっ!」

何か論点が違う様な気がしないでもないけれど、それよりも遼太郎を剥がす事が先だと、一生懸命遼太郎を剥がそうとするのに全然剥がれてくれなくて。

「充さーんっ」

ぎゅうぎゅうぎゅう、と力一杯抱きしめられてしまって、おまけに狭い個室だから充はあっと言う間に壁に押しやられてしまい。

「わっ、ちょっ、りょーたろ!?」

抱きしめられるままに壁にあたって、それでも遼太郎が引いてくれないから壁と遼太郎に挟まれてしまって、大変苦しい。
これは一発鳩尾でも決めて眠ってもらうしかないのか。でもそれもちょっと可愛そうだしなぁ。と、どうやって今の状況を脱出しようとあれこれ考えているうちに、何だか遼太郎の動きが止まっている事に気付いた充は恐る恐る遼太郎の背中をぽんぽんと叩いてみた。

けれど、返事は無い。
それどころか、どこからどう聞いても、充の耳には安らかな寝息しか聞こえてこなくて。


「・・・遼太郎の方が疲れてるんじゃない。まったく」

どうやら叫んだっきり眠ってしまったらしい酔っ払いは、充を抱き締めた力をずるずるとゆるめて、そのままぐーすかと非常に気持良さそうな寝息を立ててしまっている。

「もう、俺の心配の前に自分の心配をしてよね」

結局今の騒ぎは何だったんだと、ふにゃりと力の抜けた遼太郎を抱えて充は小さく溜息を落とした。けれども、何だか抱きつかれているのが妙に可笑しくて、暖かくて。

「でも、このままじゃマズイよね・・・」

お店の人に見られたら笑われるかな、と、ずるずると遼太郎を剥がした充は、安らかな寝息を立てる遼太郎の顔を、伸ばした自分の膝の上に乗せて、そっとさらさらと髪の毛に触ってみた。








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