01.01...愛しい空気
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緩やかなカーブを描く色素の薄い、長く伸びてしまった髪をかきあげた綾宏(あやひろ)は苛々しながら煙草を銜え直した。 今日は日曜日。 ごくごく普通のサラリーマンだったらのんびりと惰眠を貪っている午前中。 それなのに、綾宏は金曜日の夜から一睡もせずにひたすらパソコンの前に齧じり付いて吸い殻で溢れる灰皿に一口だけ吸い込んだ煙草を無理矢理ねじ込んだ。 カタカタ、ではなくガタガタとキーボードを恐ろしい早さで叩きながら画面に映されている言語を理解すると同時に翻訳していく。 それが綾宏の仕事。 彼の脳味噌には何十もの言語が詰まっていて、それを同時に違う言語に置き換える事が出来る。 人はそれを天才だともてはやすが、綾宏本人はただ目に映ったものを反射的に違う物に置き換えているだけだ。 そして、どんなに天才だともてはやされようが、仕事は仕事。 在宅と言う形態を取った所為で忙しい時には休日も無くなるが、それも外に出るのがあまり好きでは無い綾宏には丁度良かった。 が。それもほどほどであれば、だ。 何が悲しくて二日も徹夜した上にまだ終わらないんだと、もやは口に出して愚痴る事すら出来ずにただただ苛つきながらキーボードを叩く。 ひたすら叩く。 いっその事壊してしまおうかと思うくらいに強く叩く。 「綾宏、少し休め。眉間の皺が日本海溝になってるぞ」 部屋の中にキーボードの音だけが木霊する中でふいに綾宏の上から低い声が降り掛かって大きな手が優しく綾宏の肩に乗せられた。 「颯也(そうや)?あれ?仕事は?」 颯也と呼ばれた男はからりと笑って綾宏の肩を揉んでくれる。笑った顔が非常に男らしく整っているとは綾宏も重々承知している。190cmを越す長身に鍛えられた身体。伸びて肩にかかる程の髪の色は抜き過ぎて金色から白になりかけてはいるが、それでも格好良い事には変わりが無いのが同じ男として少々嫌な感じだ。 「今日は日曜だろうがよ。ったく。せっかく俺様が居るんだからちっとは構え」 それでも綾宏にとってはただの世話焼きでしか無い。乱暴な口調だが綾宏の肩を優しくさすってくれて、気持良い。 「だって仕事だし。でも颯也が家に居るなんて珍しいね」 「おう。ま、たまには綾宏と戯れるのも良いかなと思ったんだがな。忙しそうだな」 「うん。忙しいよー」 引き続き颯也に肩を揉んでもらいながら綾宏は上を仰ぎ見てへらりと力の無い笑みを見せた。 反して綾宏の方は一応180cmの長身を誇るものの颯也に比べると細身で淡い色の髪と瞳の色が柔らかい印象を他人に与える。颯也と同じく伸びてしまった髪の長さが、しかし颯也とは違い余計に綾宏の印象をやわらげているのだろうと思われる。 そして、彼の不思議な所はへらりとした力の無い微笑みでも十分に他人を魅了するだけの力がある事だ。 「何やってんだ?」 そんな笑みを見せられた颯也は苦笑しながら肩から首に移動して凝り固まった筋肉を解してやる。 へらへらと笑みを見せる綾宏は、実はその笑顔に反して酷く苛ついている事が多い。 それを見分けられる人間は数少ないが、もちろん、颯也はそれを分かっている。 「今はねー、ロシア語とスウェーデン語。すごい急ぎなんだよ」 「・・・さっぱり分からん。ま、あんま無理すんなよ。それと飯作ったから少しは食え。折角の美貌が台無しになってるぜ?」 「なぁにが美貌だよ。心ない事言っちゃってさー。でもお腹空いたからご飯食べる」 「おお。そうしてくれ。それ以上細くなったら骨だけになるからな」 「余計なお世話」 打ち込み途中の画面をセーブして、電源を落としながら綾宏は颯也に腰を抱えられてリビングに連れ出される。そのリビングに向かう途中、軽く唇に触れたのは颯也の唇だった。 さてさて。颯也と綾宏と言うこの2人。 二人とも生まれた時からのお付き合いで幼なじみと言う関係にある。 鈴野原 綾宏(すずのはら あやひろ)。 鈴野原 颯也(すずのはら そうや)。 共に年は28歳で誕生日は2日違い。 そして、苗字が同じなのは、大学を卒業したと同時に颯也が綾宏の家の養子になったからで、事実上、この二人は生涯を共に暮らそうと決めたパートナー同士でもある。 そう、パートナーと言うからには恋人同士と言う事になる訳で、その辺の関係はまだ中学生な青少年の頃からの関係でもある。 もとより赤ん坊の頃からセットで居た二人だ。 あまりにもお互いの存在が近すぎた為におのずと視界の中にはお互いの姿しか見えない様になり、そういう関係になるのも当然だと、本人はおろか、親兄弟までもが当たり前だと思っているくらいに、この二人の絆は強い。 強くて強すぎて、けれど相手を束縛する事は無く、自然すぎる、空気の様な存在と言うのがこの二人を表す一番近い言葉だと、彼等を良く知る人々は皆口を揃えて言う。 あまりにも近すぎる距離。 空気の様な存在。 それは、例えるならば他人であるにも関わらず自分自身であると言う錯覚でを起こす程の存在。 自分は自分を裏切らない。 だから、二人にとって浮気と言う文字はおろか、嫉妬という文字すら無かったりするから傍目から見れば厄介である事の方が多い。と、彼らを知る誰もがやはり口を揃えて呟く。 「うわ〜。すっごい料理。これ全部配達?」 リビングに移動した綾宏は颯也にひっつかれたままテーブルの上に並べられた料理の数々に分かっていても一応驚いてみせて斜め上を見て笑う。 「お前なぁ、分かってて言うんじゃねーよ。俺もお前も料理全っ然ダメだろうがよ」 「あはは。分かってるって。あーお腹空いた〜」 二人が暮らしているのは高層マンションの最上階。 だだっ広い空間にどうやっても二人じゃ多すぎる部屋数を誇る高級物件。 まだ高校の時に株を齧った颯也が一発当てて、現金一括で買ったんだと、自慢げに笑いながら大学入学と同時に綾宏を引きずってこの部屋に越して来た。 「お前なぁ、最初っからデザートに行くな。まず飯を食え。飯を」 「えー。最初に好きな物からいきたいじゃない」 「ふざけんな」 杏仁豆腐の入ったボウルを抱える綾宏に颯也はしかめっ面をしながらボウルをもぎ取って料理の乗った皿をドンと綾宏の目の前に置いてやる。 ついでに缶ビールのプルタブを開けて二人分のグラスに注ぐのも忘れない。 「海老チリ辛い。いらない。あげる」 勝手に食べかけの海老を颯也の皿に放り投げる綾宏に。 「最初っから食うな。変わりにピーマンやる」 細切りピーマンを綾宏の皿に放り投げる颯也。 しばらくはそうやって賑やかに食事を続けながら綾宏はふと目の前の男を見て、にっこりと微笑んだ。それに答えて颯也も微笑みを返してくる。 「で、何で今日は居るの?」 すっかり満腹になって満足満足とお腹をさする綾宏は食後の一服とばかりに煙草を銜えて颯也を見る。 「何だ、俺が居ちゃ不味いのか?つーかやっと仕事がひと段落したんだからしばらく甘えさせろよ」 にやりと笑って新しい缶ビールのプルタブを空けた颯也は空いた綾宏のグラスにもビールを注ぐ。 「なぁに馬鹿言ってんのさ。暇になったんなら綺麗なおねーさんの所にでも行ってくればいいじゃない。僕は明日の夜まで忙しいんだからね」 ぶぅとふくれて見せる綾宏に颯也は声を出して笑う。 「さて。飯も食ったし洗濯でもするか。綾宏、あんま無理すんなよ。晩飯時になったら呼びに行くからな」 大きな手が伸びて綾宏の髪をくしゃりと撫でる。 昔からの颯也の癖。 くすぐったいけれど暖かい感触に綾宏は微笑みながら頷いた。 のんびりとした空気の中で、間違い無く存在する片割れの温度に2人とも妙に安心した息を吐いた。 |
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