途中までのサンプルです。だいたい文庫本の100Pくらい分です。





それなりに充実したかもしれない一日を終えて普通に寝た。そこまでは覚えてる。
それから、どうしてだかお尻の辺りがむずむずするなと思って起きたら、全てが変わっていた。
「・・・へ?」
思わず小さな声が溢れ落ちた瑞葉(みずは)は目を開けたまま呆然とした。
だって、青い空だ。見知った天井でも見知らぬ天井でもない。青い空に白い雲。まさか寝ている間に外に、そんな訳はない。
だって今は冬で寒くて、なのに目覚めた青い空の下はとても暖かい。
慌てて起き上がって、また驚いた。やっぱり外だった。青い空に白い雲、煉瓦造りの建物の群れに、どうしてか、焦げた臭い。何で焦げ臭いんだ何か燃やしているのか。
呆然としながらやたらお尻がむずむずするなと思って、最後にとっておきの驚きがひょっこりと尻尾の先を出した。
「・・・うっそ、嘘、でしょ、え、夢、夢なのこれ」
文字通りの尻尾がパジャマのズボンのウエストの方から顔を出した。
ひょっこりと顔を出した尻尾はまるで猫みたいで、ぽわぽわの白い毛と、先端にミケ猫っぽい色があって、え、可愛いなこれ。思わず顔を出してふよふよとしている尻尾を握ったら、痛かった。
「あ、痛い。え、痛い?夢なのに・・・痛い?まさか、これ、俺の、尻尾・・・う、嘘、だあ」
呆然と一人で呟いてなぜか笑ってしまう。驚きが過ぎると笑うしかないんだなあと思いながら尻尾を引っ張ってみたらちゃんと繋がっていて、うん、瑞葉の尻尾らしい。そんなまさか。
力なく笑う瑞葉の周りには誰もいなくて、そもそもどう見ても青空の眩しい外で、周りは煉瓦みたいな、塔みたいな建物が沢山あって、その周りを緑の濃い森が囲んでいて。明らかに妙だ。
「夢にしても、もうちょっと俺、頑張ろうよ・・・いや、頑張ったからこんな夢なの、それはそれで嫌だけど・・・えええ、尻尾・・・ぽわぽわ・・・可愛い、じゃなくて、ええええ」
瑞葉の呟きだけが響き渡って、焦げ臭い匂いはまだ辺りに漂っていた。

そもそも普通に寝たはずだ。
残業のない会社だから定時に終わって、暇だったから適当に駅前の広場でナンパ待ちなんかして、直ぐに引っかかってくれた暇だったらしい大学生と安い定食屋で一緒に夕食を取って、まだ未成年だったから飲まないで手出しもしないで早めに帰って寝たはずだ。
どうしてだか瑞葉はちゃんとした成人男性で、そろそろ三十路の足音が聞こえる年齢ではあるけれど、高確率で同性にナンパされるしかなり若く見られる。
あまり認めたくはないのだけれども、平均身長に肉のつかない身体と・・・とびっきりの女顔、だからだろう。しかも美少女風。なので、それなりの場所で待ち合わせっぽく立っていれば高確率で同性にナンパされる。
声は女性らしくない普通の男のものなので、大抵は返事をすれば驚かれて引いてくれる。
そこで引かなかったり暇そうで瑞葉に興味を抱いたりしたら一緒にご飯を食べたり、まあ、大人なので駄目な遊びに興じる事もある。男性でも女性でも美味しく食べる人なので。
そんな訳で、昨夜は普通に寝たはずだ。
なのに、どうして目が覚めたら猫の尻尾みたいなのが生えてて、待て、ひょっとして尻尾があると言う事は。
「・・・ある。耳が、あるよ・・・待って、普通の耳もある。でも猫の耳っぽいのも・・・ぽわぽわ」
あった。尻尾があるならまさかと思って頭に手を持ち上げたら、あった。
尻尾と同じ毛質の、三角の耳が。ちゃんと痛覚もある。でも普通の耳もあって音はこっちから聞こえている、のだろうか。
呆然と三角の耳を触っていたら遠くから音がした。足音だ。
「人が、来る・・・?」
がさがさと聞こえるのは森の中からだ。じっと見ていれば森から声が聞こえて、人が出て来た。
人がいる。これは瑞葉の夢、では、ないだろうもう。
森から出て来た人は明らかに日本人じゃなくて、衣装だってまるで違うのだから。
どう見てもファンタジーの映画に出てきそうな騎士みたいな人と、魔法使いみたいな衣装の人が一人。大きい人と少し小さい人。どっちも男性で、まだ若い感じだ。しかも。
「耳と尻尾がある・・・真っ白だ」
二人とも三角の耳と尻尾があった。真っ白で、大きい人の尻尾はふわふわしていて、少し小さい人はすらりと長い。毛質にも差があるのか。
いっそ関心しながらぼけっと見ていたら二人は何やら話しながら歩いてきて、瑞葉に気づいて驚いた顔になった。こっちだって驚いているのだけれども、驚きすぎて表情は変わっていないのかもしれない。
「わあ、見事な失敗ですよ、兄様。これまずいですよねー。どうしましょう」
「どうするも何も調査するしかないだろう。しかし魔法棟が粉砕とは・・・待て、誰かいる様だが」
「あれ、本当ですね。え、ちょっと待ってください、あれ、とってもまずいんじゃ」
「・・・頭が痛い」
「僕だって痛いですよ」
どうやら真っ白い二人は兄弟らしい。大きい人が騎士っぽい衣装でお兄さんで、少し小さい人が魔法使いっぽい衣装で弟だと思われる。
分かりやすいなあと思えば二人揃って盛大にため息なんか落としてる。
瑞葉だって落としたい。

それにしても、何と言うか綺麗な二人だ。耳と尻尾は真っ白だけど、髪は黒で瞳は青っぽい。映画に出るみたいな整った顔立ちで身体も立派だ。
大きい人は短髪より少し長いくらいで、少し小さい人は腰まで伸びている長髪だ。どっちも似合っているし格好良い。
でも、こんな人は知らない。そもそも瑞葉の知っている人間には三角の耳も尻尾もないし、ファンタジーの衣装なんて着ていない。

ぽけっと見ていたら二人揃って耳と尻尾をゆるりと振りながら瑞葉をじっと見る。
仕草が一緒なのがますます兄弟っぽい。
「ええと、そこの方、怪我はありませんか?ないならそこを退いてほしいんですけど」
瑞葉に話しかけてきたのは弟の方だ。すらりとした長い尻尾がやや警戒するみたいに揺れている。あれ、何であれが警戒の仕草だって分かるんだろうか。でも敵意はないみたいだ。
「何で分かるんだろ・・・あ、ごめんね、今降り・・・」
今更だけれども瑞葉のへたり混んでいる場所は瓦礫の山の天辺で、パジャマだからもちろん裸足だ。これでは移動できないじゃないか。
そもそもどうして瓦礫の山の天辺なんだと、最初の疑問がまた持ち上がって、浮かそうとした腰が落ちるし尻尾だって落ち着きなく先っちょの方が揺れる。
そんな瑞葉に気づいたのか、兄の方もふわふわの尻尾を揺らして見上げてくる。こっちは困惑が強いみたいだ。
「待て、どうやら裸足の様だ。それに随分と粗末な衣装を・・・貴方は、まさか」
「粗末って言うな。パジャマなんだからこれでいいんだよ」
そもそも寝ていたのだから当然じゃないか。
思わず言い返えせば大きい人がちょっと驚いた顔になって、瑞葉の尻尾の先っちょがぱたぱたと瓦礫を叩く。自分で動かそうとは思っていないけど、動きが気持ちにシンクロしているみたいだ。ちょっとだけカチンときた叩き方だ。
「パジャマ・・・そうか、ならば、いや、今は議論している場合ではないか。失礼する」
「へ?」
だから、どうして尻尾の動きが分かるんだ。また疑問が持ち上がって考え込もうとしたら、大きい人が目の前に来ていた。え、少し離れた所にいたのに、いつの間に。
座ったまま大きい人を近くて見上げて、また驚く。
綺麗な人だとは思ったけど、近づくとより迫力がある。映画スターみたいな人で、遠くで見た時よりも瞳の色が濃い青に見える。
やっぱりどう見ても日本人じゃないし、そもそも近づいて改めて分かったけど、衣装がもう、異世界だ。ぽかんと見上げていれば大きい人が瑞葉の側に腰を落として両手を伸ばして、抱き上げられた!
「わ」
「驚かせてしまってすまない。貴方の様な子供を巻き込むとは許し難いな。ネア、後を頼む。私は先に戻る」
驚きすぎて耳と尻尾がぶわりと膨らんでしまったけど、大きい人は軽々と瑞葉を抱き上げたまま軽くジャンプした。すごい。軽くジャンプしただけで瓦礫の山から降りた。
瑞葉の重さなんて感じられない移動っぷりに、けれど子供だと言われてしまって、また尻尾の先っちょがぱたぱたと動く。
「ちょっと、あの・・・」
「今から移動する。一瞬だから驚かないでくれとは言えないが、貴方の身の安全は保障する」
「大丈夫ですよ。兄様、顔は怖いけど安全ですから。ではまた後で。あ、転送するならもう少し開けた場所に行かないとですよ」
「分かっている。すまないが少し徒歩で移動してから飛ぶ。楽にしていてくれ」
「だから、あの・・・」
何が何だかさっぱり分からない上に軽い荷物みたいに運ばないでほしい。一応お姫様抱っ子だし大切に運んでくれているんだろうなあとは思うのだけれども、どうも瑞葉を子供だと思っているみたいだし。
質問が山程あっても考えがまとまらない。耳も尻尾もぴくぴくしていて落ち着かない。
この人かなり大きいなあとか、衣装が映画で見る騎士の人みたいだなあとか、どうして冬の寒い部屋で寝たはずなのに空気が暖かいんだろうなあとか、空は初夏みたいな色だし森みたいな緑ばかりが見えるなあとか。
いろいろと思い浮かんでは直ぐに消えて言葉にならない。
「ここならば転送できるか。今から私の屋敷に飛ぶ。直ぐだから辛抱してくれ」
「・・・うん」
転送って飛ぶって何だろう。もう素直に返事するしかない瑞葉に大きい人が何やら呪文らしい言葉を唱えて、周りの全てが一秒にも満たない時間で、変わった。



世界の全てが一瞬で変わって、けれども同じ緑色ばかりだった。
お姫様抱っ子されたまま大きい人が瑞葉を運んで、すたすたと歩く。
さっきの場所も緑だったけど、ここも同じ緑だ。いや、ちょっと違うだろうか。
森みたいなそうでない様な、木々が生い茂っているのに、太陽の光がちゃんと地面まで届いていて草花がやたら多い。こんな森の中だったらもっと暗いだろうに、不思議だ。
そして、瑞葉を運んでくれている大きい人は何も喋らなくて困る。
いろいろ聞きたいけれども、こうも無口だと何を喋っていいのか分からない。
落ち着かない気持ちが耳と尻尾にも伝わっているみたいで、ゆらゆらと揺れてしまう。うう、どうしよう。
「着いた。中に入れば裸足でも大丈夫だろう。あれが私の屋敷だ」
何も言えずに困りきっていたら、やっと大きい人が喋ってくれた。この人、声も低くて良い感じだ。
近くに落ちてきた声に感心しつつ到着したのかと前を見て、また驚いた。
確かに屋敷だ。でも、屋敷まで、建物まで緑に覆われているじゃないか。
やっぱり見た感じは煉瓦造りでファンタジー風な、たぶん二階建ての大きな屋敷だ。
でもとんでもなく大きくはない。瑞葉の知る家よりはだいぶ大きいけど、洋館と言ったサイズか。その洋館は壁のほぼ全てを緑のツタに覆われていて、草花が沢山見えていて、とても綺麗だ。
綺麗だけれども、建物まで緑に侵食されている。
「あの、ねえ、すごい緑がいっぱいなんだけど」
「ん?そうでもない。ここは敷地内だから人の手を多く入れているのだが・・・貴方には多いと感じられるのか」
「う、うん。すっごい多いよ」
「・・・そうか」
素直に伝えれば大きい人が困惑した顔になって、耳の先っちょがピクリと動いた。
これは、よく分からない仕草だ。全ての仕草が分かる訳ではないんだなと、真っ白い耳とやたら格好良い顔を見上げていたら洋館まで運ばれて、立派な玄関らしきドアが勝手に開いた。自動ドアには見えないけれど、何か仕掛けでもあるのだろうか。
何もかもが不思議で疑問が次々と湧いては次の疑問に押しつぶされていく。
落ち着かないまま洋館の中に運ばれて、玄関らしきドアの内側は小さいホールになっていた。建物の中には緑は侵食していないみたいだ。
これまた映画で見る感じの、洋館らしい造りで、けれどまだ降ろしてくれない。
ホールも真っ直ぐ突っ切って、次のドアもまた自動で開いて、ようやく降ろしてくれた。でも。
「うわあ、すっごい部屋・・・物で溢れてる」
「すまんな。一応全て使用する物だが、確かに溢れているな」
「うん、溢れてる」
小さいホールとは全く別の空間だった。
やたら広くて、きっと一階のほぼ全てが一部屋になっているんだろうと思われる。
でも、入り口から本や山積みになっている書類らしい紙が並んでいて、恐らくはソファとか椅子とかテーブルにも以下同文。壁は全て棚で埋まっているし、なのにキッチンらしき場所も見える。
とにかく物が多くて溢れてる。そんな部屋ではあるけれど、奥の方には壁をぶち抜いた大きな窓があるし、天井もきっと吹き抜けになっているんだろうと思われる天窓があるから明るい。
そして物で溢れてはいるけれど裸足で歩けるくらいの通路はあるし床は綺麗だ。
「執務室や客間、キッチンも全てこの部屋にしてしまっているからな。主にネアの城だが私も使っている。適当に座っていてくれ。とにかく着替えを探してくる。その衣装では尻尾も窮屈だろうからな」
「あ、うん、ありがと・・・あの、ネアって?」
「ネアは、そうか、名を・・・名乗っていなかったな。ネアは私の弟だ。先程共にいた髪の長い魔導師。私はアディ。貴方の名を聞いても?」
「お、俺は、加納瑞葉、瑞葉だよ・・・魔導師って、聞こえたんだけど」
「瑞葉、説明は着替えてからにしよう。少し待っていてくれ」
「あ、はい」
そうだった。まずは着替えないと・・・尻尾がずっとズボンのウエストから無理やり出ているから落ち着かない。
さらりと名前を教えてもらった、アディが尻尾をゆるりと振りながらさっき入ってきたホールの方へ移動していった。ホールの両側に階段が見えたから二階に行ったのだろうか。
「・・・座る場所、ないし。あんまり歩くのも・・・どうして、ここ、どこなんだろ。何で、尻尾・・・耳・・・」
ずっと尻尾は落ち着かなくて先っちょがゆらゆらしていて、見た目は可愛いけど困る。
静かな広い部屋に一人きり。呆然と立ち尽くすしかない。
考えることすら放棄したくて、いっそ倒れたい。倒れて気絶して、目が覚めたら夢で、自分の部屋に帰っていたら・・・きっと、無理なんだろうけど。
何となくだけれども、ここはちゃんと現実で目が覚めても戻れない気はしている。
何より倒れたら散らかしてしまいそうだし、いろいろな物にぶつかって痛そうだ。
倒れらないから結局立っているしかない。ゆらゆらと揺れる尻尾の感覚だけが妙にリアルで、やっぱり困る。

全てに困って呆然と立ち尽くしていたらアディが衣装を持って戻って、瑞葉を見てちょっと驚いた顔になっている。
立ち尽くしている瑞葉と溢れる物をちらりと見比べて、座れなかったのだと判断したらしい。尻尾がすまなそうに揺れるけど、座れなかったのは物のせいじゃなくて、瑞葉がぼけっとしていただけだ。
「すまないな、少し片付けよう」
「だ、大丈夫。それ、着替え?」
「ああ、大きいと思うがその衣装よりはマシだろう。着替える部屋は」
「ここで着替えるからいいよ。ありがと」
「いや、待て」
衣装を受け取って、別に同じ男同士だしと、パジャマに手をかけたらすごい速さで止められた。がしっと、パジャマにかけた手の、手首を握られてしまう。
そんなに慌てなくても。あ、そうか。尻尾があるから下着まで着替えないと駄目だからか。でも、別に気にしないのに。男なんだから。
そう思って、握られてしまった手首を離してもらおうと口を開きかけたら、アディが綺麗な顔をずずいと近づけてとんでもない事を言ってくれた。
とても真剣で、真面目な表情と声で、真っ直ぐに瑞葉を見つめて、言ってくれた。
「いくら子供とは言え女性が男の前で肌をさらすものではない」
「・・・は?」
これは、あれか。ひょっとしなくとも瑞葉はいろいろと間違えられている、みたいだ。
さっきとはまるで違う意味で呆然と、ぽかんと口が開いてしまうじゃないか。
そりゃあ確かにだいぶ年下には見られるし女性に間違えられるけど、でも、でも!
耳と尻尾がぶわりと膨らんで、アディが驚く。ぽかんとしたけど間違いが重なって多少はこれでも腹が立って、そうか、ぶわりと膨らむのは怒っているからか。アディにも分かるのか。
ぶわりと膨らむ瑞葉の耳と尻尾とは反対に、アディの耳がへたりと下がった。申し訳ないと思っている仕草だ。
「す、すまない。だが、やはり肌をさらすものではないと思う」
それでもアディは真っ直ぐに、心配してくれている。この人、やたら綺麗で格好良くて威圧感のある感じだけど、優しくて真っ直ぐだ。
大きい身体をわざわざ瑞葉に合わせてかがんでくれて、同じ高さで視線が交わっている。
「怒ってない・・・や、ちょっとだけ怒ったかもしれないけど、その、ありがと。でも、俺、男だし大人だから」
「・・・は?」
アディの誠実さに瑞葉も真っ直ぐに青い瞳を見つめながらちゃんと告げたのに、うん、その素っ頓狂な声はどうかと思う。アディの耳と尻尾が力なく垂れて、掴まれている手首も開放された。
「そんなに驚かなくてもいいと思うんだけど」
「あ、いや、その、女性では・・・大人、だと?」
「とっくに大人だし男だし。だからそんなに気を遣わなくてもいいの」
「そう、なのか・・・?」
これはもうさっさと着替えた方が早そうだ。まだ呆然としているアディから一歩下がって、パジャマの上を脱ぐ。そりゃあアディみたいな立派な体格の人に比べれば細くてぺらぺらだけど、ちゃんと男だ。
「ね、分かったでしょ」
脱いだパジャマの上をひらひらさせながらアディを見れば目を見開いて、おお、耳と尻尾がぶわりと膨らんでいる。
これはさっきの瑞葉みたいな怒りじゃない。純粋な驚きだ。
「本当なのだな・・・いや、例え同性でも失礼にあたる。重ね重ねすまない。私は飲み物を用意する。決して振り向きはしない。着替えを終えたら声をかけてくれ」
「そこまでしなくてもいいのに」
「私がそうしたい」
優しくて真っ直ぐで紳士で、誠実まで加わった。まだほんの少しの時間しかアディを見ていないけど、滲み出る人徳みたいな光が眩しくて焼かれそうだ。
まだ耳も尻尾も膨らんでいるのに、くるりと後ろを向くと部屋の奥に見えるキッチンらしき場所に行ってしまった。きっと着替えが終わるまで本当に振り向かないんだろうと素直に信じられる。どんなに時間がかかっても振り向かない。でも、きっと困っていたら助けてくれる。
名前しか知らない人なのに何の疑問も抱かずに信じられるのはどうしてなんだろう。やっぱり滲み出ている、いや、溢れているアディの人徳を感じ取っているのだろうか。そんな訳はないだろうけど、脱いだままなのも変なのでさっさと着替えてしまおう。

アディに渡された衣装はきちんと下着とサンダルまで揃っていて気遣いもできる人だった。欠点はないのか、あの人には。いやまだ出会ったばかりだけれども。
ちらりとキッチンを見ればちゃんと背中を向けてお茶の用意をしているみたいだ。
ふわふわの尻尾がゆるりと振られていて、んー、あの仕草は普通の気持ち、になるんだろうか。そんな動きだ。
「・・・どうして分かるんだろ。それも変だし、いろいろ、教えてくれるかな」
アディなら教えてくれそうだ。衣装を広げて確認して、もそもそと着ていたパジャマを脱ぐ。ようやく尻尾が開放されて気持ち良い。尻尾、やっぱり普通の下着とズボンだと窮屈だったみたいだ。
渡してくれた下着らしいものをざっと確認して履いてみる。何と言うか便利な下着だ。形と履き心地はトランクスとボクサーの間みたいで、尻尾の部分には穴じゃなくて大きめの切り込みが入っていた。穴だと出し抜きするのに不便だからだろうか。切り込みの部分は布が重なる様になっていて違和感がない。
服の方は白いシャツと五分丈くらいのズボンで、こっちにも尻尾用の切り込みがあった。ここの服は全部こんな感じなんだろうか。
多少大きいけれど問題なく着られて、サンダルを履けば着替え終了だ。
長い袖を捲りながらキッチンで用意をしているらしいアディの方に向かう。
「アディ、着替え終わったよ。ありがと」
ぺたぺたとサンダルで歩いて声をかければゆらりと尻尾を振りながら後ろを向いていたアディが振り返った。片手に湯気の出る銀色のポットを持っている。本当にお茶の用意をしていたみたいだ。
「ああ、やはり大きいな。不便はないか?」
「大丈夫。それで、俺の着てたパジャマはどうすればいいかな」
「そのままにしておいてくれ。後で洗う様手配する。ここは散らかしていないから座っていてくれ」
「ん」
キッチンにも物が沢山あるけど、確かに他の場所よりは片付いているみたいだ。それでも物は多いと思うけど。
明かり取りの窓のある壁に広い作業台があって、木のテーブルと椅子もある。食事はここでするらしい。広いテーブルには椅子が四脚がある。四人で使っているのだろうか。
アディはポットをテーブルの上に置いてカップを用意してくれている。あれ、そう言えばコンロが見えないけどお湯はどうやって沸かしたんだろう。
不思議に思いながら椅子に腰掛けようとして、飛び上がった。
思いっきり尻尾をお尻に敷いてしまったからだ。
「いった・・・痛い・・・」
尻尾なんて当たり前だけれども今までなかったものだ。まさかお尻に敷いたら身悶えするくらいに痛いだなんて、知りたくなかった。
飛び上がって尻尾がびりびりと震えて、座らずにテーブルに突っ伏してしまう。
まだ痛い。
「尻尾を下敷きにしてしまった、のか?大丈夫、ではなさそうだな。耐えられない様ならば魔法で回復させるが」
「ま・・・ほう・・・?」
痛みに悶えていたらアディが心配してくれて、けれど、とんでもない事を言った。
魔法って、まさか、魔法なのか。ファンタジーっぽいと思ってはいたけど魔法まであるのか。
思わず痛みも忘れてアディを見上げれば真っ白い耳が心配そうに揺れて、何やら呟いて、指先を瑞葉に向けた。向けられた指先がふわりと光る。
呆然と眺めていたら尻尾の辺りがふわりと暖かくなって、痛みがなくなった。
魔法、なのだろうか。たぶん魔法なのだろうけど、実際に体感してもさっぱり分からない。
「軽い回復魔法だ。もう痛みはないはずだ」
「う、うん」
「尻尾は持ち上げて座るものだ。慣れていないのならば持ち上げたのを確認してから座ると良い」
そうか。持ち上げて座るのか。言われた通りに尻尾を持ち上げてそろそろと座ってから、椅子の背もたれの下にある隙間から垂らす。尻尾があるから椅子は全て背もたれの下に隙間があるのか。
ふるりと尻尾の先を振っていたら正面の椅子にアディが座った。目の前に美味しそうな匂いの、紅茶みたいな飲み物が飾り気のないマグカップで差し出される。一緒に大きな皿に盛られたクッキーみたいなお菓子もきた。
美味しそうな匂いに腹が鳴る。そうだ、すっかり忘れていたけど瑞葉は寝起きで腹ペコだし、もう起きてからだいぶ時間が経っている。
けれども、アディの前で腹が鳴るのは恥ずかしい。薄い腹を押さえたらアディがふわりと微笑んで耳を動かす。あ、これは微笑ましいと思っている動きだ。
「無骨なカップですまないな、来客用の物は揃えていない。もうそろそろ昼食時だ。その時にはしっかりとした食事を出そう」
「あ、ありがとう・・・」
どこまでも親切な人だ。うっかり綺麗な微笑みに見惚れそうになるけど、空腹には勝てないので有難く紅茶らしい飲み物とクッキーを頂く。
暖かい紅茶みたいな飲み物は、うん、紅茶だ。程よい温かさと甘みにほっとする。クッキーは結構厚みがあってごつごつしているけど、とても美味しい。甘さ控えめでいくらでも食べられそうな味だ。
もぐもぐとクッキーを頬張っていたらアディが引き続き微笑ましい感じに耳を動かして自分の分の紅茶を飲んでいる。
「食べながらで良いのだが、幾つか質問しても良いか?」
「質問・・・もちろん。あの、俺もいろいろ聞きたいんだけど」
「そうだろうな。私で分かる範囲であれば答えよう。では、まずは私から一つ目の質問だ」
「うん」
まだ何も知らない。いろいろ聞けたら、例えばこの耳と尻尾とか、そもそもここはどこなのか。何でこんな所に、瓦礫の山の上なんかで目が覚めたのか。
聞きたいことばかりだけれども、アディもきっと瑞葉に沢山質問があるんだろう。
そう思って食べかけのクッキーを飲み込んでアディを見たら。
「貴方は、瑞葉はこの世界の人間ではない。その耳と尻尾は瓦礫の山で生えた。違うか?」
「・・・え」
「恐らく瑞葉の世界には魔法も存在しない。魔物の存在もない。魔導師でも魔法剣士でもないと言った所で、平穏な世界であったと思う。合っているか?」
クッキーを飲み込んでおいて良かった。じゃなかったら吹き出していた所だ。
だって、この世界の人間じゃないなんて。魔法に、魔物だなんて!?
驚いて目を見開いて、耳と尻尾もぶわりと膨らんでしまった。なのにアディはにっこりと微笑んで紅茶を飲んでいる。
「当たった様だな。まだ少ない時間ではあるが、いろいろと分かる事もある。詳しくはネアが戻ってからになるが・・・どうした?」
驚き過ぎると膨らんだ耳と尻尾も一瞬でへたれてしまうみたいだ。
ぺたりと伏せた耳を感じながら瑞葉もテーブルにぺたりと突っ伏す。
だって、この世界って、それじゃあ、ここは。
「・・・ここ、世界が違うって言った・・・俺、どこに来ちゃったの・・・何で耳と尻尾なんかあるの、魔法って、魔物って・・・」
何となくは感じていたのだ。どう考えても夢でも耳と尻尾は変だし、緑ばかりの景色だって暖かい温度だってアディみたいな綺麗で格好良いファンタジーな人だって、ありえないって。
分かってはいたけど、さらりと微笑みながら告げられても困る。とても困る。
「混乱させてしまった様だな。一応、私も混乱はしているのだが、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよ・・・泣きたい」
「泣かれてしまっては困る。その、紅茶にミルクを入れるか?」
「何でミルクなの・・・入れる。ミルクティー好き。クッキー、美味しい・・・」
「すまなかった。瑞葉にも自覚があるものだと思っていたのだが、その様子だと何も知らずにあそこにいたのか。クッキーはネアが作り置きしているものだから沢山食べてくれ。また後で作る様に頼もう」
「ネアって」
「私の弟だ。先程まで一緒にいた髪の長い方だ」
「あ、さっきも聞いたね。ごめん」
「いいや、気にしないでくれ」
テーブルに突っ伏したまま顔だけを上げてアディの方を見れば困った顔で瑞葉のカップにミルクを足してくれた。耳も困っているみたいでぴこぴこしている。あれ、触ったら気持ち良さそうだなあ。クッキーもお皿に追加された。
あの綺麗な人、ネアはお菓子を作る人なのか。美味しそうだしお腹もまだ減っているからむくりと起き上がって、新しく足された薄くて丸いクッキーを齧る。こっちは甘酸っぱくて美味しい。
「美味しい・・・」
「良かった。突然ですまなかったな。改めて非礼を詫びよう」
「非礼ってそんな大袈裟じゃないと思うよ・・・ホントの事だし。でも、何でそんなに分かったの?俺、名前しか言ってないのに」
やっぱり優しくて、誠実な人なんだなあ、アディは。
まだ困った顔のままで瑞葉の目を見つめながらきちんと謝罪してくれる。別に謝る事じゃないのに。
クッキーを齧りながらミルクティーにも口をつければアディがほっとした顔になって、椅子の後ろでふわふわの尻尾が安心した様にふわりと振られている。
「順を追って説明しようか。私の話を聞いて、瑞葉の質問があったら挟んでくれ。その方がわかりやすいだろう」
確かに質問したいことが沢山ありすぎるからアディの提案に乗った方がわかりやすそうだ。もぐもぐしながら頷けばアディもごつごつした方のクッキーを一口齧る。
「では最初に。瑞葉がこの世界の人間ではないと推察したのは、いや、まずはこの地方の人間ではないと確信したのは、私を知らないから、だな」
「へ?」
そうして、何を説明してくれるんだろうと身構えていたらアディを知らないからなんて言われてしまった。驚きよりも不思議に思って、尻尾が勝手に揺れれば微笑ましそうな笑みで見られてしまう。
「やはり知らないのだな。改めて自己紹介をしようか。私はアティディレア・ケイレス。このケイレス地方を治める領主の一人だ。ちなみに、ケイレスの街は地方都市ではあるが王都に次ぐ規模であり、魔法化学の都市でもある。知っている単語は、なさそうだな」
「・・・うん、全く・・・アディ、偉い人だった・・・あの、俺、普通に話しちゃってるけど、いいのかな」
「構わない。瑞葉を保護した時点で私とネアの客人だ。ああ、ネアも領主の一人であり、ケイレスは我ら兄弟の治める都市でもある。名も略称の方で呼んでくれ。兄弟揃って舌を噛む名だと不評でな」
「あ、はい」
長い名前の方はあまり使わないとのことだ。そして、領主になる時にケイレスの名を継いだと言う。
全く想像のできない大きな話に食べかけのクッキーを飲み込んで、そのまま止まってしまう。だって領主って、王都って。まだ若く見えるのに、ひょっとしたら瑞葉より年下かもしれないのに。
「街のことは後程。次に、耳と尻尾の話にしようか。改めて確認したいのだが、瑞葉の世界にはこの耳と尻尾はないのだな?」
「うん、ないよ。これずっと不思議なんだけど、あの、どうして耳と尻尾の動きで何となく考えていることが分かるの?あ、でも分からない動きもあるんだよ」
ある訳がない。こっくりと頷いて、ずっと不思議だったから質問に口を挟む。アディはじっと聞いてくれて、耳を一度だけぱたりと動かした。この仕草は何だろう?分かるのと分からないのがある。
「この耳と尻尾は生まれつき全ての人に与えられる祝福だ。緑の祝福と呼ばれている。祝福は幾つかあって、この耳と尻尾が世界と繋がり魔法を使う際の触媒となっている。それと、瑞葉の言う通り大まかな感情が伝わるものでもある。機嫌の良し悪し等の本当に大まかな感情くらいだがな。ああ、耳と尻尾は様々な形や色があるが主に私やネア、瑞葉の様なものだ。瑞葉の様な模様を持つ者も多い」
「はあ、何だかこっちも壮大な話だった・・・」
ぱたりと瑞葉の尻尾が途方にくれた揺れ方をして、耳もへにゃりとなる。
ぽわぽわの尻尾を自分の意思で持ち上げて先っちょを握ってみれば気持ち良い。自分の尻尾なのに気持ち良いなんて。
「耳と尻尾は世界から贈られた大切なものだ。一日に最低三回の手入れを必要とする。これは手入れの時間になったらまた説明しよう。そして、大切なものだから家族や恋人以外には触れさせないし、触れてはいけない。もちろん尻尾を敷いて座ってもいけないな」
「う、それは分かってるよ・・・そっか、触っちゃ駄目なんだね」
ちょっと残念だ。アディの耳と尻尾はとても触り心地が良さそうなのに。瑞葉のぽわぽわよりもしっかりしているのにふわふわで。
真っ白い耳と尻尾をじっと見てしまって、そうしたらアディがくすりと笑う。
あ、そうか。瑞葉が耳と尻尾の動きで何となくアディの気持ちが分かっているのだから、向こうも同じなのか。
「赤の他人には絶対に触れさせないが、ある程度親しくなれば、例えば友人だったら触れる許可を得れば大丈夫だ。瑞葉、手入れの時に私の尻尾に触れてみるか?」
「いいの?」
「根本は断るが、先端の方であれば良いぞ」
「ありがと!」
自分のも気持ち良いけれど、アディのも気になっていたのだ。許可をもらって瑞葉の尻尾が嬉しそうに揺れる。嬉しい揺れ方だ。アディにも見えた様で、柔らかく微笑むとクッキーを一枚摘んだ。瑞葉も一枚摘んで齧る。
「昼食の後に手入れの時間となる。ああ、ネアが戻る様だ。少し待っていてくれ」
「あ、うん」
戻って来る、のが分かるのだろうか。外も見ずにアディが食べかけのクッキーを紅茶で飲み込んで、席を立つと外に向かっていった。玄関のあるホールじゃなくて、奥にある壁ごと窓にした所だ。
窓は引き戸になっていてアディが外に出て行く。見た所電話とかの通信機器はなさそうなのにどうして分かったのだろうか。・・・そうだ、まだ全てを見てはいないけれど、部屋には電化製品が一つもない。部屋だけじゃない、少しだけアディに運ばれて歩いた外にだって緑しかなかった。
「緑の祝福って言ってたよね・・・それに、魔法って・・・ここ、やっぱりファンタジーの世界って考えるべきなの、かなあ」
窓の外に立つアディが見える。尻尾は少しゆらりとしていて、これも分からない。
分かるのは大まかな感情だけなのは教えてもらった通りらしい。

ふむ、と考えてクッキーをもう一枚食べながらぐるりと部屋を見渡してみる。
物で溢れた部屋にはやっぱり電化製品の類は見えず、洋画のファンタジーの世界だ。
夜になったらどうするんだろうと思うけれど、魔法でどうにかするのかもしれない。
「まさか魔法だなんて・・・しかも耳と尻尾・・・変な所」
もぐもぐしながら一人で呟いて、ミルクティーを一口。唐突に妙な所に放り出された現実ではあるけれど、あんまり慌てる気持ちがない。
とても落ち着いているし、クッキーもミルクティーも美味しいし、アディは格好良くて綺麗で、とても誠実で優しい人だ。今の所は。
これからどうなるんだろうと思う心はあるけれど、うーん、全然慌てる気持ちがない。
「俺、いっつもこうだから怒られちゃうんだよなあ。だってアディは親切だし、今の所危険もなさそうだし・・・でも帰らないと心配させちゃうよねえ。どうやって帰るかなんて分からないし、何か無理そうな気もするし・・・尻尾、ぽわぽわだなあ」
これが現実逃避だったらまだマシだ。瑞葉の場合はとても落ち着いている上での本心だから質が悪いと言う自覚がある。
「困ったなあ・・・困ってないのが、困るんだよねえ」
はふ、と息を吐けば耳がぴくりと揺れる。そうだ、この耳と尻尾があったらもし戻れたとしても大変だ。でもこの世界に来てから生えたみたいだし、戻れれば消えるのかも、消えなかったらそれも困る。
困ることばかりだ。
それでも慌てないし、もしここで生活しなければいけなくなっても、それはそれ、どうにかなるだろう。心の底から素直に思ってしまうから、いつも友人や家族に怒られていた。執着心がなさ過ぎる、もう少し興味を持て、しがみつけ、勝手にふらふらするな。沢山怒られて心配もしてくれて、とても有難いなあとは思っているし、今頃心配しているのだろうなあと思えば申し訳なく思う。
けれども、それでも帰りたいと叫ぶ気にはならない。
「まずは、情報収集かなあ。アディ良い人そうだし、いろいろ聞いてみようかな。あ、弟君が帰ってきた。ええと、ネアだったっけ。兄弟揃って綺麗だなー」
いろいろと考えながら尻尾をぱたぱたさせて遊んでいたらアディの立つ外にもう一人増えた。黒い長髪の、弟のネアだ。二人立つと目立つ兄弟だなあと眺めていたら話をはじめたみたいだ。きっと瑞葉に関することだろう。
二人だけで話したいことも沢山あるだろうからこっちは気にしないでほしい。
待つのは嫌いじゃないし尻尾をぶらぶらさせるのも結構楽しい。そう思ったのにアディとネアが揃って部屋の中に入ってきた。
「急がなくてもいいのに。俺、待つの嫌いじゃないよ?」
「急いではいないが待たせるつもりもない」
連れ立って入ってきた二人に話していても大丈夫なのにと伝えれば兄弟揃って尻尾をゆるく振る。心配ないよ、気にしなくていいよの振り方で、アディとネアが瑞葉の座る席の前に立つので釣られて立ち上がる。
やっぱりアディはだいぶ大きい人で、瑞葉が平均的な身長だから、見上げる大きさから言って一九〇センチメートルくらいありそうだ。ネアがアディより少し小さくて、瑞葉より大きい。真ん中だ。
「貴方まで立たなくてよかったけど、ありがとうございますね。改めて自己紹介をします。僕はリティネヴェア・ケイレス。リネって呼んで下さいね。兄様、アディ兄様と一緒にケイレスの領主で魔導師です。どうぞよろしく、瑞葉」
「よ、よろしく」
ぼうっと見上げていたらネアがにっこりと微笑んで綺麗な礼をしてくれた。
真っ白い耳とすらりとした尻尾も一緒にお辞儀をしたみたいな動きをして、思わず見惚れてしまう。綺麗ってお得だ。
それにしても魔導師なんて、当たり前だけれどもはじめて見た。でもアディも魔法を使っていた様な気がするけど、魔導師とは名乗っていないし衣装も違う。差があるのだろうか。
「瑞葉のことはちょっとだけ兄様から聞いてますよ。後で詳しくお話しすると思いますが、まずはお昼にしましょう。着替えてきますので、もうちょっと待っていて下さいね。兄様は瑞葉の側にいてあげて下さい」
「言われずとも分かっている。瑞葉、昼食ができるまでクッキーは止めておいた方がよいだろう。外を歩いてみるか?」
「外・・・うん、見てみたい」
「少し時間がかかるから、外でまた話をしよう」
「ん。ありがと。ええと、ネアも、ありがと」
「あれ、僕にまでお礼頂けるんですね。嬉しいなあ。お昼ご飯が豪華になっちゃいますよ。でも兄様の言う通り少し時間がかかるのでゆっくり歩いてきて下さいね」
ネアがにっこりと微笑んですらりとした尻尾を嬉しそうに振ってくれる。
この人も良い人だなあ。
さっぱり分からない妙な所に来てしまったみたいだけれども、瑞葉は運が良いみたいだ。


アディに連れられて、奥の大きな窓から外に出た。やっぱり外の空気は暖かくて例えるなら初夏の昼下がりだ。
空も快晴で、周りは全て緑に囲まれている。
地面も土じゃなくて芝生に似た、緑色の草で覆われていて小さな花も沢山だ。
「わあ、凄いね・・・全部緑だ。花もいっぱい。それに、暖かい」
何回見ても凄いなあと感心してしまう。
暖かい風にふわりと、緑と花の匂いまで混じっていて、本当にいろんな意味で違う世界だ。思わずアディから離れて一歩二歩と緑色の地面をふらふらしていれば後ろから穏やかな笑い声がする。
「先程から感心しきりだな。緑と花、それに温度に感心している様だが、聞いても良いか?」
「あ、うん。俺の住んでた所は冬だったし、こんなに緑も花もなかったから驚いてるんだよ。ここは緑がいっぱいだし、春なのかな」
「ん?妙な事を言うな。緑は不変のものだ。それに、季節とは何だ?」
「・・・へ?」
おや、素朴な疑問が変な方向に進んだ。アディを振り返って首を傾げれば向こうも同じ仕草をしている。不思議そうに揺れる尻尾もきっと同じだ。
とすると、ひょっとしたら。
「ねえアディ、この緑ってずーっと全部緑、なんだよね、その様子だと。それに、ずっとあったかいんだ。寒くなることってあるの?」
「世界が緑に包まれているのは当然だ。暖かさ・・・そうか、瑞葉は寒さを知っているのだな。この世界も北方に向かえば寒さがあるとは聞いているが、この辺りには存在しない。朝晩は少々肌寒いが」
「やっぱりそうなんだ。そっかあ、ずっとあったかいのいいね。俺、目覚める前までは寒かったんだけど・・・寒いの、分かる?」
「残念ながらと言いたい所だが・・・魔法で、体感済みだ。料理や攻撃にも使用する」
「そうか。魔法があったね。あ、魔法で思い出したよ。アディとネアの服装が違うのって、ネアが魔導師って言ったからなのかな。ちょっと違うけど、アディも魔法を使うんだよ、ね?」
「ああ、私もネアも魔法を使用する。そうだな、魔法の説明がまだだったか。私は魔法騎士、剣士でもある。ネアは魔導師。これは各個人の能力によって付与される称号の様なものだな。衣装で言えば、今私やネアが纏っていいるのは正装だ。称号によって最適な衣装だとされているが実際は好みで選んでいる。我々は領主だから定めに従っているだけだ」
アディの説明にうんうんと頷きながら本当にファンタジーなんだなと感心する。
魔法を使うのが当然だとアディの態度が物語っているからだ。
それに、衣装の謎も解けた。
「ん?でも剣士って言うことは剣を使うんだよね。アディ、手ぶらに見えるけど」
「私の武器は両手剣で、私の背丈程の剣だ。普段は持ち歩かない」
そんな大きな剣を振るうのか。また感心していればアディが何かを唱えて指先がほんのりと光る。魔法だ。
「魔法は日用の雑務や身体の癒し、傷の治療、攻撃、全てに適応する。一応は全ての人間が使用できるとされているが、実際は面倒な作業が必要でな。実際に魔法を使用し、私やネアの様な称号を持つのは全人口の半分程だ」
アディの指先が空に向けられて淡い光が放たれるのと一緒に風が舞う。風の魔法らしい。
すごいなあと見ていたら魔法を使うにはいろいろと勉強しなければいけないらしいので興味がぐんと薄くなった。勉強は嫌いではないけれど、アディの説明が明らかに難しそうなので見ているだけで満足だ。
耳と尻尾で大変そうだと語っていたらしく、アディが苦笑して、ふわふわの尻尾を照れくさそうに小さく振る。あ、可愛い。
「魔法って便利そうだけど大変そうでもあるんだね。ねえ、さっきの部屋には電化製品がなかったと思うんだけど、あ、うん、電気・・・ないんだね」
「はじめて聞く言葉だな。瑞葉の世界にあるものなのか」
「俺の世界での、魔法みたいな感じかな。誰でも使えるし難しくはないけど、たぶん魔法の方が便利だと思うよ。それに、電気は有料だから。使用料を取るんだよ」
「有料なのか。だが等しく使用できると言うのは良いな。瑞葉、少し歩こうか」
話しながらアディが誘ってくれるので隣をついていきながらゆっくりと暖かい空気と草花の匂いを感じて歩く。
尻尾がゆらりと揺れて、囲まれる緑と青空がとても気持ち良い。
緑に囲まれてはいるし森の中に屋敷があるんだろうけど、やっぱり日差しは地面までちゃんと届いているし明るい。
不思議だなあと思っていたら森の中に知らない耳と尻尾が幾つか見えて、手入れをする庭師だと教えてもらった。ここは緑に囲まれているのが当たり前で、放っておくと直ぐに街ごと森の中に埋もれてしまうらしい。だから手入れをする人が沢山いて、庭師と言うのが称号だそうだ。

他にも歩きながら沢山話をした。主にアディからの説明だけれども、何も知らないから有難く聞いておく。
アディは説明も上手で、本当に欠点のない人だなあと感心しきりだ。

そうして、屋敷の周りを散策していたらお昼ご飯ができあがった。ネアの魔法で伝言が飛んできたのだ。伝言はふわふわと漂うまあるいガラス玉で、アディの近くに来ると勝手に弾けて声が出た。
便利だなあと感心しながら屋敷に戻って、キッチンのテーブルで美味しくネアの手作りお昼ご飯を頂く。
お昼ご飯は肉厚のウインナーとコーンスープにパン、それに飲み物とプチケーキだ。
見た目も味も瑞葉の知っている料理と一致しているしとても美味しい。
そして、瑞葉の状況についても説明してくれた。

どうして瑞葉がこの世界に来てしまったのかはさっぱり分からないらしい。
今分かっているのは、あの瓦礫の山だった所で魔法の実験をしていたらしく、それが思いっきり失敗して、たぶん瑞葉が巻き込まれたのだろうと推察しているそうだ。
「ただ犯人が瓦礫の下敷きになっちゃうし魔法陣も潰れちゃってて調査中なんです。なので申し訳ないんですが時間がかかってしまいそうで、ごめんなさい」
「ネアが悪い訳じゃないし、その、帰れなくちゃ困るのは困るんだけど、正直俺の所とはまるで違うから・・・あの、頑張って」
「もちろん頑張ります。魔法は僕の専門なのでお任せ下さい。それと、瑞葉の身分については、これも申し訳ないんですけど、暫くは実験に巻き込まれて飛ばされてしまった地方の子と言う事にしました。待遇は僕ら兄弟の客人です。その、全く違う世界から飛んでしまったと言うのがあまりにも突拍子もないので」
「それは構わないよ。俺だってこうしてネアやアディと喋ってても、耳と尻尾が生えても信じられない気持ちだし・・・よく二人は直ぐに信じたって思うよ」
「だって瑞葉、僕らを知らないじゃないですか。それに、瓦礫の山で瑞葉を見た時に直ぐに分かりましたよ。この子は違う所から来てしまったんだなって。流石に信じられませんでしたけど、瑞葉の行動とかを見ていたら分かりやすいので納得しましたが」
「え、最初に会った時に分かったんだ。アディも?」
「直感の様なものだな。明らかに私達とは違うのだと。衣装も尻尾を通す場所がなかったし、後はネアの言う通りだな」
「そっかあ。あ、じゃあ他の人にも直ぐ分かっちゃうじゃないかな」
「それは大丈夫です。本当に、最初の一瞬だけ感じたものなので。今は、そうですね、可愛らしい女の子だなって思いますよ。可愛いですよね、瑞葉」
「うん、ありがと。男だけど。あれ、性別伝えてるよね?」
「聞いていますよ。でも可愛いなあって。先端の三毛模様が特に。毛質もぽわぽわだし、何より瑞葉自身も可愛いですよね」
「・・・沢山褒めてくれてありがと」
正面から真っ直ぐに褒められまくっているけど、たぶん子供だと思われているんだろうなあと思う。この兄弟には。
たぶんアディとネアの方が年下だと思うのだけれども、これは言わないでおこう。
別の世界から来てしまった事よりも信じてもらえる気がしない。

尻尾をぱたぱたと振って食事を続けながら話も続く。それにしても、ネアも自分を知らないと言い切った所を見るとこの兄弟、とても有名な人なんだろうか。
領主だから偉い人なんだろうし有名ではあるんだろうけど。少しだけ不思議に思いながら続く話を聞きいて、瑞葉も質問を重ねて美味しい昼食を食べ終えて、食後のお茶も頂いた。

昼食の後はアディの言っていた通り、耳と尻尾のお手入の時間だ。
それぞれ専用のクリームとブラシでもって丁寧にお手入するらしい。そして毛が抜けるから昼の間は外でするのが普通との事だ。
まあるい簡易椅子を庭に並べてみんなでお手入である。そう、みんな。全員。
この屋敷にはアディとネア以外にも沢山の人がいて、お手入の時間は一緒との事だ。
既に瑞葉の事は伝えてあるらしく、ずらりと並ぶ沢山の人達が笑顔で挨拶をしてくれる。うん、やっぱり全員に耳と尻尾があって、形も色もいろいろだ。
「沢山いるから紹介はまた今度にしましょうね。みなさんだいたい敷地内の手入をしている庭師で、後は屋敷内の管理をしてくれる人達ですね。ただ基本的に屋敷は僕ら兄弟だけの方が多いので彼らは必要な時だけ仕事をしてくれますよ」
あんなに広い屋敷なのにアディとネアだけで使っているのか。どうりでさっきから静かだと思っていた。
まあ、あの物の量じゃあなあと、ある意味納得しつつも二十人くらいがずらりと並んで耳と尻尾の手入をするのは壮観だ。
「慣れるまでは私が瑞葉の手入をしよう。まだ専用のクリームもブラシもないから、揃えないといけないな」
「兄様、衣装も揃えないとですよ。それ、僕のですよね。着るのは全然構わないんですけど、大きいですよ」
「そうだな。瑞葉は私達の大切な客人だ。遠慮なく欲しいものがあったら言ってくれ」
「・・・至れり尽くせり過ぎて何もないよ」
強いて言えば戻りたい、だけれども、これもちょっと怪しい。だって椅子に座る瑞葉の後ろに立ったアディが耳をブラッシングしてくれているからだ。
お手入、うっとりするくらいに気持ち良い。
そして根元の方にブラシがあたるとぞわぞわする。これはあれか、根元が性感帯ってやつなのか。そんな感じのぞわぞわだけれども、気持ち良いのには変わらないし、丁寧にブラッシングされているくらいじゃあ身体の方も大丈夫そうだ。
こうなると尻尾の方も遠慮なく気持ち良いぞとぱたぱた動いてネアがくすくすと笑う。溢れる気持ち良さは尻尾の振り具合で分かるから周りの人達も微笑ましい感じで笑っている。
「その様子だと痛くはない様だな」
「聞くまでもないよね。これ、ブラシしてからクリームなの?」
「いや、最初にブラッシングをして埃を落とし、クリームを塗ったら仕上げのブラッシングだ」
お手入は中々大変そうだ。でも気持ち良いから大変さも気にならない。
むしろもっとしてほしい。ぱたぱたと尻尾を振りながら耳の手入が終わって、尻尾もアディがやってくれる。でも気持ち良いから尻尾がぱたぱたしてしまって後ろで苦笑する気配がする。
「これ、自分でどうにかならないのかな」
「ある程度ならば何とかなるが、瑞葉はまだ慣れないだろう。しかし、この毛質は・・・」
「なに?俺の尻尾、何か変なのかな」
「変ではないが、その」
瑞葉の耳と尻尾はぽわぽわだ。毛の長さはネアより長くてアディより短い、中くらいと言った長さだけれども何か違うのだろうか。
尻尾を丁寧にブラッシングしてくれているアディが言いづらそうにして、何だろうと自分の耳を触ればネアが笑う。
「瑞葉の毛質は、怒られちゃうかもなんですけど、赤ちゃんと一緒なんですよ。ちょっとだけ触っても良いですか?」
「・・・赤ちゃん・・・俺、赤ちゃんなの」
「毛質としては珍しい部類になるだろうが、その、恐らくは瑞葉がこちらに来たばかりだと言うのも関係しているかもしれないな。ネア、手を伸ばすな」
「だって触りたいじゃないですか。ちょこっとだけですって」
「別に触ってもいいけど・・・俺もネアの尻尾触りたい。アディのも」
「いいですよ。では失礼して・・・わあ。ぽわぽわ、気持ち良いです」
「全く。すまんな、瑞葉」
別に構わないけど、ちょっとだけアディ達が瑞葉を子供に見ている理由が分かったかもしれない。童顔で女顔で、ぽわぽわの、赤ちゃんの耳と尻尾が幼く見せているのかもしれないと。確かに瑞葉も赤ちゃんみたいな毛質だなとは思ったのだ。
「これ、時間が経てば変わったりするのかな。ふわふわとか」
「どうだろうな。多少の変化はあるかもしれんが、通常は成人前に毛質は固定される」
「だよねえ」
ぽわぽわのままでも構わないけど、耳と尻尾は生えたてなので変化するならふわふわが良い。変化するまでこの世界にご厄介になるのもどうかとは思うけど、来たばかりでいろいろ考えても仕方がないか。
ネアがちょいちょいと尻尾の先っちょに触れていて、満足しきった笑顔で自分の尻尾を嬉しそうに振っている。嬉しいなら何よりだし、ネアが触っている間に手入が終わった。瑞葉も手入が終わった尻尾を触って、おお、ぽわぽわだけど艶々だ。
「お手入ってすごいね。ネア、尻尾触らせて」
「いいですよ。先の方だけ、優しく触ってくださいね」
「分かってるよ・・・うん、ネアは艶々が多い気がする」
「僕の毛は短いですからね。触り心地なら兄様がバツグンに良いですよ。特にお手入後は」
「触らせてもらうから期待してる」
「妙な期待をしないでくれ」
瑞葉のお手入が終わったのでアディは自分の耳と尻尾をブラッシングしている。
ネアの尻尾は艶々でつるりとした感触だったけど、見るからにふわふわなアディの尻尾はとても楽しみだ。期待を込めてお手入をしているアディを見ていたらあからさかまに苦笑されて、周りの人達が笑って、ぞろぞろと自分の分の椅子を抱えたまま森の中に消えていく。
そうか、お手入が終わったら仕事か。何で椅子ごと行くんだろう。
「あの椅子は携帯用ですよ。作業の途中で使用する事もあります」
「そうか。それで、みんな森の中に行ったみたいだけど何をするの?」
「緑の手入ですよ。緑は世界の基盤ですけど放っておくと直ぐにぜーんぶ埋もれちゃうので、私達がちょっとだけ住める様に必要最小限で手入をしているんです。それと、森の奥に畑もありますからその手入もですね。そうだ兄様、手入が終わったら瑞葉に見せてあげたら良いんじゃないですか。見た方がいろいろと早いと思いますよ」
「それもそうだな。瑞葉、尻尾の手入が終わったから触って良いぞ」
丁寧にブラッシングして艶々になったアディの尻尾がふわりと揺れる。
アディの尻尾は真っ白で長くてふわふわだ。そっと手を伸ばして先端に触れて、触り心地に感動する。
「わあ、気持ちいい・・・ふわふわ・・・ふかふか・・・」
尻尾は見た目通りの触り心地で、ふわふわで、お手入したてだからふかふかだ。
これは気持ち良い。先端の方だけを指で揺れてちょっと毛の中の感触を楽しむ。
瑞葉のぽわぽわとは全くの別物だ。
「ありがと、アディ」
「満足したなら何よりだ。ではネアの言っていた通り、この辺りを見せよう。ネア、後を頼む」
「お任せください。お茶の時間までには戻ってくださいね」
「分かった。瑞葉、失礼する」
「へ?」
この辺りを見るならばまた歩けば良いのでは、なんて思った瑞葉にアディが両手を伸ばして、また抱き上げられた。しかも今度はお姫様抱っこじゃない、子供抱きだ。
驚いて耳と尻尾が膨らむけどアディは気にせず何やら呟いて、そうか、この聞き取れない呟きは魔法の詠唱なのか。
どうして瑞葉を抱き上げて魔法を使うんだろうと耳と尻尾が落ち着いてきた頃に、何と、ふわりとアディが浮いた。
「見るのならば空からの方がわかりやすい。捕まっていてくれ」
「そ、空・・・」
魔法って空まで飛べるのか。驚きも過ぎてぽかんと呟けばアディが小さく笑って、そのままふわふわと空に浮かんで行く。
本当に飛べる、いや、浮かんでいる。
ふわふわと空の上に浮かんでだいぶ高い所まで来て。
「わあ・・・本当に緑一色・・・あ、向こうに街っぽいのがあるよ」
「あれがケイレスの街だ。屋敷から歩いて一時間くらいかかる。今から向かおうとも思っている所だ」
「街に行くの?」
「瑞葉の衣装や日用品を揃える為にな」
「・・・え、こんな、直ぐに?」
来たばかりなのに。揃えてくれるのは有難いし、領主だって言うのだからきっと偉い人だしその辺りは頼っても大丈夫なんだろうけど、こんなに直ぐにいろいろ揃えてくれるつもりなのだろうか。
緑一色の景色を見るのも忘れてアディを見ればふわふわの耳がぴくりと動いた。
気にするなの仕草だ。
「例え瑞葉が明日にでも元の所へ戻れるとしても、今この地での記憶を悪しきものにしたくない。不自由なく過ごしてほしい。できれば楽しんでほしいとも思っている。瑞葉を保護するのは領主である私の義務だが、私の個人的な想いでもある」
うわあ、うわあ。さらっと凄い台詞を聞いてしまった。口説いてる訳ではないしアディが心から瑞葉を気遣ってくれていると分かるのに、これは、照れる。いっそ正面から口説かれた方がまだマシじゃないかこんなの。
呆然とアディの綺麗な横顔を見つめてしまって、じわじわと赤くなる。尻尾が落ち着きなく揺れて、そんな瑞葉を横目でちらりと見たアディが微笑んだ。
「おや、瑞葉はその様な表情もするのか。随分と落ち着いて見えたから意外だな」
「う、うるさいよ。俺だって照れるし、でも、その・・・ありがと」
「瑞葉は沢山礼を述べてくれるのだな。だから余計にもてなしたいと思うのかもしれない」
「だって有難いって思ったらお礼言うでしょ」
「そうだな。では空の散歩に戻ろうか。私の顔ばかり見ていてもつまらないと思うぞ」
「すっごい見ごたえがあると思うけど、空飛んでるんだもんね。凄いなあ、本当に緑だけ・・・山もないし、ずーっと森が続いてるんだ。ちょっとだけ見える建物が街とかかな」
「ああ、緑の中に人は住まう。全ての存在が緑に包まれる」
「そうなんだ」
やたら緑を強調しているけど、そう言う世界なんだろうなあと素直に思う。
本当に、空からでも全てが緑に覆われていて、街らしき建物の群れは判別できても小さい集落はちょっと分かりづらい。そして、緑はあるけど、それ以外の色がない。
砂も土も水も。ひょっとしたら存在しないんだろうかと思うけど、これはまだ考えなくて良いだろう。街の近くに着いたからだ。
「ここからは歩いて移動する。少しの間ではあったが楽しんでもらえただろうか」
「もちろん!魔法って凄いね、空を飛べるなんて思いもしなかったよ」
「そうか、良かった。だが、すまないが空を飛んだ事は街では言わない様にしておいてくれ。あれは、本来は戦闘用の魔法になる」
「そうなの?」
「ああ。それと、瑞葉が全く別の場所から来てしまったのも、すまないが今はまだ秘密にしておいてくれ。そうだな、私の遠縁と言う事にしておいてくれるだろうか」
「それは構わないけど、俺が遠縁でいいのかな」
「もちろんだ」
浮かんだ時と同じ様にふよふよと下降して行って緑の地面に降りる。
ふんわりと降りて、アディの腕からも下ろしてもらって、さくさくと草の大地を歩きながら街に向かう。

地面まで降りたら街のざわめきが聞こえてきた。いろいろと気を遣ってくれて嬉しいなあとアディの隣を歩きながら、ちらりとふわふわの尻尾を見れば機嫌良さそうに振られている。瑞葉を街に案内するのが嬉しいんだろうか。だったら瑞葉も嬉しい。
ふんわりとご機嫌になれば瑞葉の尻尾も揺れて、二人で街に入った。


街の入り口は花のアーチになっていてとても綺麗だ。
このアーチを起点にして魔物除けの結界魔法があるらしい。そうだった、この世界、ファンタジーらしく魔物もいるんだった。
「基本的に魔物は昼間には行動しない。街や人間の多い場所にもあまり近づきたがらないから心配はない」
「そうなんだ。魔物の天敵が人間って感じなのかな」
「そうとも言えるな。我らもむざむざと食われる訳にはいかないから遠慮せずに攻撃してきた歴史の結果だ。だが人間を襲う魔物ばかりではない。友好的な魔物もそれなりにいる」
「そんなのもいるんだ」
街にも緑が溢れていてとても綺麗だ。
どうやら大きな木の中や外側に建物をくっつけていて、道も広いのに外と同じく緑だ。
そして、大きい街らしくて沢山の人が歩いている。
全員に三角の耳と尻尾のある人達が沢山。当たり前だけれども、全員がファンタジーっぽい衣装で、耳と尻尾があって、道端にある露店みたいな所も見た事がない物で溢れている。壮観だ。
思わず足を止めて息を吐けばアディが心配そうに見下ろしてくる。
「いや、本当に違う・・・所なんだなあって改めて感心してただけだよ。大丈夫」
「気分が悪くなったり何かあれば直ぐに言ってくれ」
「大丈夫だよ。ありがと。あ、ねえねえ、沢山建物があるみたいだけど、全部木にくっついてるの?」
「ああ、街や集落は樹木に沿って建てられている所が普通だな。私達の屋敷が異例になる。樹木の中はくり抜いたのではなく元々の形を加工している」
「ふわー、すごいね。俺、こんな大きな木を見るのはじめてだよ・・・あ、これは言わない方がいいかな」
「不便をさせてすまないな。だが大きな声でなければ大丈夫だ」
「不便なんて感じないよ」
こんなに良くしてもらっているのに、申し訳なさそうにされてしまうと瑞葉の方が困ってしまう。
隣を歩くアディの腕を軽く叩いてにっこりと見上げれば街行く人達の視線が刺さった気がする。そうだった、アディは領主の人だった。偉い人に馴れ馴れし過ぎたかなと少しだけ身構えたらアディの手が背中に触れてくる。そして、街行く人達が笑顔で挨拶したり会釈したりしてくれた。
「日用品と、仕立屋、は時間がかかるな。仕立ててある物を幾つか揃えよう」
背中を軽く押されて街の中を歩けば益々視線が集まるけど、どうやらアディはかなり親しまれている領主みたいだ。誰もが気軽に挨拶してアディが目礼で返答している。喋りかけてこないのは瑞葉がいるからだろうか。それは分からないけれども、みんな嬉しそうにアディを見て尻尾を振っている。
まだ若く見えるのに立派な人なんだなあと、何度目かの関心をしていたら最初の店に到着した。日用品のお店だ。
「うん、そろそろ当然だなって思える様になってきたよ」
「ん?」
「何でもない~」
店の入り口は葉っぱのアーチになっていて、壁らしきレンガはアディの屋敷と一緒、緑だけだった。
大きな店みたいで、中に入れば緑はなくて品物で溢れていた。これもアディの屋敷みたいな物の溢れ具合だ。
何となく見覚えのある、瑞葉の知っている道具や、全く分からない物体が所狭しと並んでいる。その道具達をアディが選んで店のカゴに放り込んでいる。あれが瑞葉の日用品になるのだろうか。
「瑞葉、好きなカップを選んでくれ」
「・・・俺の?」
「ああ、そうだ。瑞葉のカップが必要だろう?」
まだ出会ったばかりなのに、いやでも日用品の一つだし・・・そうなのだろうか。
驚く瑞葉を不思議そうに見ているアディに、ああ、そう言う人なのかと感心する。
いつまで滞在するか分からない、しかも全く違う世界から来ている瑞葉をあっさりと懐に入れてくれる人なんだ。それは嬉しくもあり、でも、ちょっとだけ不思議にも思う。こんなにも懐が大きくて大丈夫なのだろうか、なんて余計な心配だけれども。
「瑞葉?」
「ううん、何でもないよ。ええと、普通のでいいんだけど、えーと、これかな」
「分かった」
慌てて白くて何の模様もないカップを選べばアディが納得してカゴに入れてくれる。
それにしてもアディはいろいろと選んでくれているけど、とても立派な衣装の、領主が自らカゴを持つって言うのも面白いなあと思ってしまう。
店の人もお客達も不思議には思っていない様だし、この世界の領主は瑞葉の思う偉い人とはまた違うのだろうか。
「ねえ、アディはこうやってお買い物とかよくするの?」
「ん?ああ、毎日ではないが食材は買いに来る。ネアの方が頻度は多いが」
「ネア、お料理上手だよね。全部ネアが作ってるの?」
「店で食事をする事もあるが基本はネアだな。私も多少は嗜むが、大雑把過ぎるといつも叱られてしまう」
「アディもお料理するんだ」
「瑞葉はどうなんだ?」
「俺はねえ、あんまりしない。お店で食べる事の方が多いかな。一応ちょっとだけはできるよ、たぶん」
「その言葉でだいたい分かった。日用品はこの辺りで良いだろう。足りない物があったらその都度だな」
「結構買うんだね。えーと、ありがとね」
「どういたしまして。次は服だ」
質問しながら店の中をうろうろして、瑞葉には何が必要かさっぱり分からないから、アディがいろいろとカゴの中に放り込んでくれて一件目が終了だ。
だいぶ荷物が多くなるなあと思っていたらお店の人が届けてくれるらしい。お会計もしないで、その辺はやっぱり偉い人の待遇だった。
でも小さい袋だけをお店の人がアディに手渡していて、あれは直ぐに使う物なのだろうか。
「瑞葉のクリームとブラシ、それと、カップだ。残りは明日届く」
「お手入大切だもんね。俺持つよ」
「これくらい持たせてくれ。欲しい物があれば足すが」
「何が必要なのかも分からないし、欲しいのもないよ。十分満足です」
「瑞葉は欲がないな」
「そうでもないよ。後で欲しいものがいっぱい見つかるかもしれないし」
「その時は言ってくれ」
小さな袋はアディが持ったまま次の店に向かう。この様子だと欲しい物があれば何でも買ってくれそうだと思うけど、瑞葉がそうしないと分かっている様な気もする。
ふわふわの尻尾を振りながら笑うアディに促されて、緑の街を歩いて直ぐに二件目に到着した。こっちの店も緑のアーチで、店の中は服で埋め尽くされている。
この街の店はみんなぎゅうぎゅうに商品を詰めるのが普通なんだろうか。
「仕立ても欲しいがまずは直ぐに着られるものだな。瑞葉、幾つか試着をしてほしいんだが」
「いいよ。何着ればいいかな」
「そうだな、どれが良いか・・・店の者に見てもらうか」
山になっている服はどれが何だがさっぱりだ。アディも衣装については詳しくないと言い切ってお店の人を呼んでいる。
着られれば何でも良いのだけれども、アディのお世話になるならあまり変な衣装じゃ駄目だろう。
にこにこ顔の、黒い耳と尻尾の店員さんがアディと話しながら何着か選んでくれて試着しようとして、女性物を渡されたので笑顔で返却する。
この世界でも瑞葉は女の子に見えるらしい。そう言えばアディに間違えられたなあと少し前の記憶がだいぶ遠く感じる。
「・・・ぷっ。す、すまない。私も間違えてしまったからな」
「自覚があるから怒らないよーだ。できれば動きやすい男性用がいいなあってお願いするけど?」
「すまんすまん」
アディでも吹き出したりするんだなと、はじめて見る笑い方にうっかり見惚れそうになるけど、そこはぐっと我慢して新たに渡してもらった衣装を試着する。
三着渡されて、一着目は今着ている様なシャツとジーンズみたいなラフな奴。二着目がブラウスと半ズボン。見た目はともかくこの歳で半ズボンはちょっとあれなので変更してもらおうと決める。そして三着目は足首まですとんと繋がった、ネアの衣装みたいなやつだった。生地が立派で刺繍もあって、これはよそ行きになるのだろうか。
それぞれを試着してアディと店員さんに見せて、サイズも問題ないからそのままお買い上げになった。他にも同じサイズの服を何着か店員さんが選んでくれて、パジャマや下着にサンダル、ブーツまで揃えてもらう。
「こんなに良いのかな。二着あれば間に合うと思うんだけど」
「二着では足りないだろう。気にするな、瑞葉の衣装で私の懐は微塵も痛まないし、屋敷にはまだ二階がある」
「そこで一階って言わない辺り、だよね。改めて、いろりろとありがと、アディ」
「どういたしまして、と受け取ろう。急ぐ買い物はこのくらいだな。そろそろ屋敷に戻ろうか。ネアが待っている」
服も直ぐに着る物だけを包んでもらってアディが持つ。
瑞葉も持てるけど、ここはアディに任せるべきだと有難く甘えておく。
「うん。また、あー、行きと同じ方法で戻るの?」
「その方が早い。次はゆっくりと、だな」
店を出て街の外に戻ればまたアディに抱き上げられて、最終的に荷物は全部瑞葉が抱える事になった。でも瑞葉ごとアディが抱えているから結局は一緒だ。



屋敷に戻ったらネアがお茶の用意をして待っていてくれた。
どうやら一階ではキッチンにあるテーブルしかまともにテーブルとして使用できないらしい。
二人とも片付けは嫌いではないけれど、荷物が増える速度の方が早いのだと言い訳してくれた。散らかってはいないし汚れてもいないから気にしなくても良いのにと思いながら、美味しいお茶とネアが焼いたピーチパイを頂いて、瑞葉の滞在する部屋を決めてもらった。
二階の、アディの部屋の隣だ。
二階はアディとネアの私室と寝室、それに空き部屋が幾つかあって、その中の一つを借りる事になったのだけれども。
「街で二階は空いてるみたいな事言ってたと思うんだけど」
「一階に比べれば、だな」
確かに一階に比べれば荷物は少ない。でも、空き部屋の床の半分が本や書類で埋まっているのもどうかと思う。いや、もう床が半分見えているだけでもマシなのかもしれない。
「隣だからつい倉庫代わりにしてしまっていてな。保管用の書類や本だから好きにしてくれて構わない。いや、片付けるか」
「構わないよ。部屋広いし、俺、そんなに広くなくてもいいし」
空き部屋ではあるけれどきちんと掃除はしているらしく埃の匂いはないし、高そうな家具は綺麗でベッドは清潔に見える。
部屋の奥には大きな窓があって、テラスへ繋がっているみたいだ。そして横の壁に扉があって、そっちには小さな衣装部屋と浴室があると教えてもらった。豪華な部屋だ。
立派なお屋敷だものなあと感心しながら部屋の中を見て、ふと山積みになっている本に視線を落として、瑞葉の動きがぴたりと止まる。

うそだ。

「・・・読める。文字が分かんない模様にしか見えないのに、読める・・・なんで」
「瑞葉?」
「よ、読めるんだよ、アディ。俺、こんな文字知らないのに、読める。理解できてる・・・何で、分かるの。ねえ、この本って魔法の本なんだよね。炎の攻撃についてって書いてあるよね」
「どうした?瑞葉の言う通りだが、いや、待ってくれ。知らないと言ったな」
「知らないよ。俺の知ってる文字じゃないよ。でも、読めるんだよ」
どう言う事だ。驚きと訳の分からない恐怖に尻尾が警戒するみたいに震えて、アディが驚いて側に来てくれる。
瑞葉の言う本を手に取って、確かに炎の魔法に関する書物だとも教えてくれる。
どうして、分かるんだ。
ぞわりとした。ここに来てはじめて、怖いと思った。
こんな、全く知らない、文字かどうかも知らない模様が理解できるなんて。
アディから一歩後ずさって、身体も震える。どうしよう、とても、今更だとは分かっていても、怖い。
カタカタと震える身体を自分で抱きしめたらアディが手に持っていた本を置いて、抱きしめてくれた。
「瑞葉、落ち着いて聞いてくれ。その、私の推察でしかないのだが、恐らくは耳と尻尾が瑞葉とこの世界を繋いでいるのだと思う。耳と尻尾は緑の、世界の贈り物だ。私達と同じ様に瑞葉が今までに学んだ知識が認識されているのだと、私は思う」
そんな馬鹿な。だって言葉は普通に通じるのに、そもそも耳と尻尾が何だってそんな便利道具になるんだ。
いや、待て。ひょっとしたら、本当は言葉も違ったりするんだろうか。何の不便もなく通じて喋っているけど、この世界と瑞葉の世界はあまりにも違うじゃないか。
アディに抱きしめられながらだんだんと落ち着いてきて、同時にいろいろと考えてしまう。そうだ、こんなにも違う世界で不便がないのがおかしいんだ。
言葉は通じているけど、生活だってそう変わらないと思っていたけど、本当は全く違うのかもしれないじゃないか。だって、ここには魔法があるんだ。
「・・・ごめん、落ち着いた。そうだよね。そもそも耳と尻尾があるのが俺にとっては変なんだし、文字だって魔法だって・・・おかしくなんか、ないよね」
「瑞葉・・・」
自分に言い聞かせるみたいな声になってしまったけど、まだ心はざわざわしているけど、震えはなくなった。でもアディはまだ抱きしめてくれていて、まるで瑞葉を温めているみたいだ。
「もう大丈夫。いきなり取り乱してごめんね。ありがと、アディ」
「礼を言われる事はしていない」
「俺が言いたいの」
瑞葉を守ってくれる気持ちだったんだろうか。だったら嬉しい。
アディの胸元をぽんと叩けば離してくれる。
「瑞葉は強い人だな。では部屋の案内をしよう。その、文字が読めるのであれば本も書類も好きに見てくれて構わない」
強くなんかないけど、褒めてくれているみたいだ。有難く受け取って、本も読めるのであれば嬉しい。そう思う事にした。
アディも瑞葉の様子にほっとして、ふわふわの尻尾をゆるく振りながら部屋の使い方を教えてくれる。のだけれども。
「お風呂、魔法で水出してお湯にしてって言われても、俺、使えないよね」
当然の様にお風呂は魔法で使うものだと言われて困惑する。なのにアディはくすりと微笑むとお風呂にある棚から小さなまるいガラス玉を幾つか手に取る。
ガラス玉は水色だったり緑色だったりして、ビー玉みたいだ。
「誰もが魔法を使える訳ではない。だが魔法で全ての生活が成り立ってもいる。だからこの魔法石を使用するんだ。誰もが使用できる、あらかじめ魔法の入っているガラス玉だ。私達も使用している」
「そんな便利道具があるんだ」
「街の店でも売っている。私は空のガラス玉に魔法を入れて自分用にアレンジもしているな」
アディがガラス玉、魔法石を差し出すので両手で受け取る。受け取ったのは水色と赤色、そして、灰色の三色だ。でも灰色の石は丸くなくて楕円形で、ガラスじゃなくて普通の石っぽい。いや、表面に模様が彫ってある。
だいぶ細くて、うーん、模様にしか見えない。
「これは何?」
「その石が発動用のものだ。表面に彫ってあるのは魔法陣で、誰もが複数個持っている。発動したい魔法石に軽く当てれば中に入っている魔法が発動する。バスタブの上で水色の石と合わせてみてくれ」
「う、うん」
成る程、誰でも使えるものだから簡単で、直ぐに発動するのか。
アディに言われた通りにバスタブの上で石をカチンと合わせれば魔法陣らしい模様がほんのりと光って、おお、水が溢れ出た。
「わ、わ、凄い・・・丁度良い量が出るんだね。うわあ、凄いなあ」
「その為の石だからな。入浴する際は赤色の石を合わせて、そのままバスタブに入れれば湯になる」
素晴らしい便利道具だ。あっと言う間に水が張られたバスタブを感心しながら眺めて、赤色の石をじっと見る。そうか、水だから水色、温めるから赤色なのか。
「石は瑞葉が持っていてくれ。ああ、そうだな、発動用の石はデザインもいろいろとあるから後で家にあるのを見せよう。好きなのを選ぶと良い」
「これでいいよ。でもその言い方だと、いっぱいある物なの?」
「子供の小遣いで買える石だ。それに、ネアが集めるのを好んでいてな。だいぶ数を揃えている」
「じゃあ後で見せてもらおうかな。でもネアが集めてるのに俺がもらっていいの?」
「構わない。使用しないのに集めるだけ集めているからな、少しでも有効利用してほしい」
いいのかなあ。まあ見せてもらうのは楽しそうだ。瑞葉としては使えるだけで良いし、そもそも魔法を使えるなんて思ってもみなかったから何でも嬉しい。
渡された魔法石を有難く受け取って、夜にお風呂に入るだろうからとバスタブの水はそのまままにしておく。そうそう、使用したバスタブは普通に排水管から流すとの事だ。そこは魔法じゃないらしい。


部屋の説明が終わってアディと別れた。
ぶかぶかの服だから着替えるのと、アディも私服になりたいらしい。そう言えばずっと騎士服で正装だった。
「何だかいっぱいあって、くらくらするなあ。でも、アディもネアも良い人そうだし・・・まずは良かったのかなあ」
問題は山積みで雪崩が起きそうだけれども、一人きりになって、静かになってほっと息を吐く。
すると耳と尻尾も深呼吸するみたいにぶるりと震えて、うん、こっちの問題もあったんだった。普通の人なのに耳と尻尾、それもぽわぽわで可愛いのが瑞葉に生えてる。
ぶかぶかの服を脱いで、鏡を探して衣装部屋に入る。立派な部屋には衣装部屋まであって、全身を映せる鏡もあった。
「やっぱり耳もミケ猫だし。尻尾も、どっちもぽわぽわだなあ。子猫みたい」
ようやく全身をきちんと見られて改めて感心してしまう。
だって猫耳と尻尾だ。しかも子猫仕様だ。これじゃあ元の女顔にあわさって子供に見られる訳だ。でもアディもネアも若そうだし、瑞葉より年下かもしれない。
自分の耳と尻尾に触れながらアディとネアを思い浮かべて、違う、そうじゃない。
「でもなあ、困ってないのがやっぱり困っちゃうんだよねえ。俺一人じゃどうしようもできないし、大人しく二人に甘えるしかないしねえ」
ぽわぽわの毛を楽しんで、流石にパンツ一丁は肌寒いので買ってもらった服に着替える。襟と裾が緑色になっているブラウスと黒いズボンだ。それに編み込みのあるサンダルで、サイズが丁度良くなって動きやすくなった。
着心地も良いし、パンツのお尻からにょきっと出ている尻尾も気持ち良さそうだ。
上手くできているもんだなあと鏡でお尻の辺りを見て、衣装部屋を出る。
「さて、どうしようかな。そうだ、ネアに石を見せてもらおうかな。特にする事もないし」
部屋に一人でいてもつまらない。元々一人なのはあまり好きじゃないのだ。
一人が好きだったらわざわざ駅前の広場でナンパ待ちなんかしない。
ゆるゆると尻尾を振りながら部屋を出て、リビングに向かう事に、あの物の溢れている一階はリビングで良いのだろうか。リビングとキッチンとたぶんその他のいろいろも一緒になっているみたいだけれども、まあリビングで良いだろう。


リビングに降りたらネアが夕食の支度をしていたから石を見せてもらうのは後にして、一緒にキッチンに立った。一人暮らしだったから簡単な料理はできるし、一応手伝えた、と思う。
ラフな私服になったアディも加わって三人でのんびりと夕食を作って食べて、何だか映画の世界に紛れ込んだ気持ちだ。実際に紛れ込んでいるのだけれども。
何せ電気がないから明かりは全て魔法で灯されて幻想的だ。でも普通に明るくて不便はなかった。

夕食は暖かいスープと大きな肉とパンで、手のかからない料理が普通だと言っていた。じゃあ何でのんびり支度をするのかと言えば、ただ単にネアの趣味だそうだ。

夕食を終えればお風呂に入って、眠る。瑞葉も早速魔法でお湯を作って慣れない世界での入浴を済ませた。
「んー、ドライヤーがないから髪も乾かないけど、耳と尻尾も乾かないなあ。これ、アディ達はどうしてるんだろ」
パジャマに着替えてタオルで髪を拭きながらベッドに座る。
ソファも椅子もあるけどベッドが落ち着くのは元の部屋が狭かったからだ。
この部屋は広くて立派で、まあ半分は書類と本で埋まっているけど、座る場所はベッドが落ち着く。瑞葉のベッドよりふかふかで大きいし余裕で転がれるけど。
「そう言えばスマホも何も持たないで来ちゃってるんだよねえ。パジャマだけだったし、寝たら明日には戻って・・・は、ないね。駄目だなあ。独り言ばっかり増えちゃう」
静かな夜の部屋は何もする事がなくて困る。いや、音はしている。お風呂に入っていた時からずっと、外から聞こえている。さあさあと降る雨の音だ。
昼間も夕方も良い天気だったのに、夜になったら雨なんだなあと、ふと気が向いて窓の方へ行く。
部屋の奥にある窓はそのままテラスへと続いていて、隣のアディの部屋とも繋がっている広い場所だ。
緑がいっぱいだから雨が降ったら益々育ちそうだなと、軽い気持ちで窓を開けてテラスにも出てみる。
暖かい空気が夜と雨に冷やされてちょっと肌寒い。そして。
「このテラス、屋根があるんだ。テラスに出て何かするのかな?」
雨があたらないなと思ったら屋根があった。
立派なお屋敷だものなあと感心しながら雨の音と水気を感じ、ふと手を外の方に伸ばそうとしたら隣の部屋の窓が勢い良く開いて、驚いた。
「瑞葉!何をしている!」
「わ、び、びっくりした・・・ア、アディ?」
「夜の雨に触れるなんて何を考えているんだ!早く、部屋の中へ!」
「え、え?」
あんまりにも勢い良く窓が開いて驚いて、アディの剣幕にも驚いた。
何だってそんなに慌てて、慌てて?
耳と尻尾を硬直させながら呆然とテラスへ出てきたアディを見ていたら手首を掴まれて、部屋に連れて行かれる。アディの部屋にだ。
「ど、どうしたの?何でそんなに、慌ててる、の?」
「慌てるだろう!雨の夜に外に出るなんて・・・いや、そうか、瑞葉は・・・そうか、そうだったな」
「アディ?」
とても慌てていたアディが瑞葉の手首を掴んだまま、はっとした顔になってから、呆然とする。
妙な変化に瑞葉もぽかんと口を開いてアディを見上げてしまう。
何だって言うんだ、雨に触れようとしたくらいで。
さっぱり分からないし手首が痛いなあと思っていたら、アディが呆然としたまま離してくれた。
「すまない、つい驚いてしまって・・・今説明をしよう。座ってくれ」
「あ、うん」
夜の雨にも説明があるのか。
アディの耳がしょんぼりとしていて、尻尾が力なく振られる。不思議に思いながら座ろうとして、うん、この部屋も荷物で溢れていてソファがあっても空いていない。
開いているのは窓際に近い、たぶん仕事用の机にある椅子とベッドだけだ。
アディは飲み物を用意すると部屋を出て行ってしまったので、どっちに座ろうかと悩んでベッドの端っこに腰掛ける。椅子は明らかに仕事で使う用にしか見えないし、アディが戻ってきたら立たせてしまう。
「広いのに空いてるのがベッドだけってのも、他の部屋も全部同じなのかな。隣も一階も凄いし、どうしてこんなに書類とか本ばっかりなんだろ」
荷物はほぼ全てが紙に関するものばかりだ。兄弟揃って勉強家なんだろうか。魔法を使うからその為のものなのかもしれないし、領主だからなのかもしれない。
散らかっていても荷物が沢山でも瑞葉は気にしないけど、ベッドに腰掛けるのはちょっとだけ気になるし落ち着かない。
「瑞葉、酒はまだ早いだろうからホットミルクに・・・すまない、ここも座る場所がなかったな」
「構わないし、俺、大人だからお酒も飲めるよ。ホットミルクも好きだけど」
「そうだった。どうも瑞葉を見ていると・・・私も揃いのホットミルクだ。酒はまた今度、美味いのを用意しよう」
「ありがと」
戻ってきたアディが両手にマグカップを、街で買った瑞葉のマグカップを持って戻ってきた。
ホットミルクなんてたぶん飲んだ記憶はないけれど、気遣いだから有難く頂く。
本当はお酒の方が好きだし、こう見えてかなり強いけど言わなくて良いだろう。
暖かいカップを受け取って、うん、甘くて美味しい。ホットミルクが好きになれそうだ。アディも自分の分を飲みながら瑞葉の隣に腰掛ける。
「先程は怒鳴ってしまってすまなかった。夜の雨に触れてはいけない。まずはそれだけを覚えてくれ」
「雨に触れちゃいけない?」
「夜の雨だけだ。夜の雨は人に悪影響を及ぼす。説明すると長くなってしまうが、結論から言えば、夜の雨に触れると人の身体が汚れてしまう。少しならば平気だが、長時間になればなる程影響が強くなり、死に至る事もある」
「・・・え」
そんな、雨に触れて最悪死ぬなんて。アディが真面目に説明してれているから嘘ではないだろうけれども、信じられない。
驚く瑞葉にアディの説明が続く。
「夜の雨は人の身体に悪影響を与えると同時に魔物を生み出す。魔物もこの世界の住人だが、人の敵だ。魔物を排除しようとする人に魔物の生みの親である夜の雨が攻撃する、と言った所だな」
「はー・・・そうだよね、魔物、いるんだったよね」
「ああ。昼間は姿をあらわさないが、夜になれば行動する。それもあって夜は外に出ないのが普通だ」
夜になったら家の中で、遊んでいる時でも建物の中から出ないのが普通で、当たり前の事だと教えてくれる。
だからあんなに慌てていたのか。魔物なんて今度はゲームの世界だな、なんて他人事の様にぼんやりと思っていたらアディが深々と溜息を落とした。
視線はまだ瑞葉を見ない。
「・・・貴方が本当に他の世界から来たのだと、先ほど思い知らされた。信じていない訳ではないし、そもそも私がそう推察した。なのに、今更思い知ってしまった。非礼を詫びる」
「え、いいよそんな。むしろアディが直ぐに言ってくれて助かったし、それに、いろいろ良くしてくれてるし、お礼は沢山あっても非礼なんて一個もないよ。その、ホットミルクも美味しいよ?」
本当に誠実で優しい人だ。しょんぼりとした尻尾が力なくベッドの上でぱたぱたしているから慌ててアディの腕に触れる。
すると、やっと瑞葉の方を見て小さく笑ってくれた。
「ありがとう。瑞葉はとても落ち着いている人なのだな。だが、髪も耳も尻尾もまだ湿っている。私で良ければ乾かして、手入れをさせてくれないか?まだ慣れないだろう」
「乾かすのが、あ、魔法があったね。洗面台に緑色のがあったや」
「眠る前の手入れも大切だ。朝に酷い毛並みになってしまうからな」
「お手入・・・大変だ」
一日三回のお手入は思っていたより大変そうだ。でもアディはくすくすと笑いながら自分のカップをベッドサイドにあった小さなテーブルに置いて、お手入の道具を取りに行った。
瑞葉のお手入だから隣の部屋まで取りに行ってくれるみたいだ。自分で持ってくるからいいよと止める前にちゃんとドアから出て行って、直ぐに戻ってきた。
「座る場所がベッドだけだと言うのも申し訳ないな。明日にでも少し片付けよう。尻尾をこちらに向けて座りなおしてくれ」
「うん。ねえ、この紙とか本とかは全部アディの物なの?」
「私の部屋にあるものは私の物だ。瑞葉の部屋にある物もな。一階はネアの方が多いが、まあ私の物もそれなりに。兄弟揃って調べ物が好きな質で昔から直ぐにこうなってしまう」
アディに言われた通りにベッドの上で座りなおして尻尾をぱたぱたと振る。まだ湿り気のある尻尾は、耳も髪もだけれども、アディが魔法で乾かしてくれた。
石を使わずに自分で詠唱していて、そうだった、アディは魔法を使える人だった。
暖かい風が気持ち良くて尻尾をぱたぱたしていたら先っちょをやんわりと握られてブラシをかけてもらう。これも気持ち良い。
まだ暖かい風がふんわりと瑞葉の周りを舞っていて、温めてくれているんだろうか。
「私は魔物の、ネアは魔法の研究をしている。主に魔物の生態や出現条件、取得アイテム等調べれば調べるほどに奥が深い。彼らは我々人間よりも歴史を持つ世界の住人だ。人間を好物とする種類や建物を襲う種族が存在する為に敵となってしまうが・・・」
ブラシをかけてもらいながらアディの話が続いている。
暖かくて気持ち良くて話がちょっと難しくて、申し訳ないけれど眠たくなってきてしまう。
だって今日は朝からとんでもない事件ばかりで、とても良くしてもらっているけど、くたくたなのだ。
こっくりこっくりと頭が下がってきてしまうけれども、アディの話はまだ続いている。魔物にもいろんな種類がいて、人の肉が好物だったり、ただ遊びたいだけなのに危険だったり、友好的に接してくれたり、貴重なアイテムを落としたり、剥ぎ取ったり、いろいろいるみたいだ。
「・・・瑞葉、今日は疲れただろう。このまま眠って良い。手入は最後までしておく」
瑞葉が眠そうなのはもちろんアディにも分かっていて、耳を丁寧にブラッシングしてくれながら柔らかく笑う声がする。アディの声も気持ち良い。





怒涛の一日は思っていたよりも瑞葉の体力を奪っていたらしい。
夢も見ずにぐっすりと眠って、朝日が昇る頃にすっきりと目が覚めた。
見慣れぬ天井で。
「わあ、見慣れない天井なんて久しぶり・・・違う、ここ・・・そうだった、違うけど違わない、んん、違う、アディの部屋だ」
起き抜けに多少混乱はしたものの、たっぷり眠ったおかげで直ぐに頭が動いてくれた。
のそりと起き上がって、ついでに耳と尻尾も起きたみたいで勝手にぶるりと震えて気持ち良い。
たった一日でもすっかり馴染んだ耳と尻尾だ。気分で動くものだけれども、無意識でも勝手に動くらしくて尻尾の先っちょがぱたぱたと機嫌よさそうにシーツを叩いて、隣で寝ているアディにも触れる。
昨日、お手入の途中で眠ってしまった瑞葉はアディと一緒に寝ていたみたいだ。
疲れている瑞葉に気を遣ってくれたんだろう。アディはまだ眠っていて、何て言うんだろう、掛布ごと丸まって尻尾だけが出ている。
眠って居る時には尻尾は動かないみたいだ。てろんとシーツの上にふわふわの尻尾が広がっていて、丸まっているアディと一緒に可愛いと思う。
「朝は弱いのかな。ん、まだ早いみたいだし俺だけ起きちゃおうかな」
二度寝する気分でもないし、カーテンの隙間から差し込む朝日が綺麗だ。
雨は夜のうちに上がったみたいだから外に出ても大丈夫だろう。

アディを起こさない様にそろりとベッドから降りて、きちんと揃えて置いてあるサンダルを引っ掛ける。これもアディのお陰だろうか。起きたらお礼を言おう。
そのままぺたぺたと窓際に行ってカーテンと窓を少しだけ開けてテラスへ出る。
「ん~、良い天気。ちょっとだけ冷えてるけどやっぱり初夏の陽気だなあ。雨上がりだし緑ばっかだし、きれい・・・」
暖かさを含む朝の空気を受けて耳と尻尾が喜んでいる。
たった一日ですっかり瑞葉の一部だ。尻尾を動かして先っちょの、ミケの柄になっている所をむに、と掴む。アディにお手入してもらった尻尾はぽわぽわで、自分で触っても気持ち良い。そして。
「可愛い柄だよねえ、これ。これだもん子供に見られちゃうよねえ。いいけど」
見た目と耳と尻尾で瑞葉は完全に子供にしか見えない。それでも気持ち良いからと自分の尻尾を撫でながら緑の景色を楽しんで、ふと気づいた。
テラスの端っこに違う緑がある。いや、いる。
「え、何・・・」
違う緑は葉っぱだ。葉っぱが何枚か、どうしてか、なぜだか人の形みたいな枝と葉っぱがつっくいていて、動いている!
どう見ても葉っぱと枝だ。しかも瑞々しい。それが、手足らしき葉っぱの部分を動かしながらテラスの柵の上を移動して、良く見たら頭らしき所に茶色い素焼きの壺みたいなのまでくっついているじゃないか!
「ちょ、え、待って、何で動いてるの、それ、まさか歩いて・・・何で頭にちっちゃい壺がくっついてるの・・・ま、まさか、魔物ー!?」
明らかに人でもなければ動物でもない。だったらこの世界じゃあ魔物じゃないか。
後ずさりながら大声で、悲鳴みたいに叫んで部屋に逃げようとしたら瑞葉が入る前に窓が大きく開かれた。
「どうした瑞葉!」
「ア、アディ、ま、魔物・・・!」
「何だと!」
アディが来てくれた。思わず飛びついて妙な壺が頭になったヤツを指差して、なのにアディは瑞葉の肩を抱いてくれながら、笑う。
「ちょ、アディ!」
「大丈夫だ、瑞葉。魔物ではない。いや、魔物らしき存在ではあるんだが、友好的な者だ」
「え、そ、そうなの?」
「ああ。しかし珍しいな。こちらに向かって来る所を見ると、瑞葉に用なのだろうか。襲われる事はないから前に出て、両手を出してみると良い事があるぞ」
「え?」
何だそれは。魔物なのに、そう言えば人間に友好的な魔物もいるんだった。
アディが瑞葉の肩を両手で支えてくれながら壺を乗せた葉っぱの方に向けてくれる。
両手を出すなんて、何かくれるんだろうか。
壺を乗せた葉っぱはテラスの柵の上を器用に歩きながら真っ直ぐに瑞葉の方に向かって来るので、一歩前に進んで両手を出し出してみた。
すると、瑞葉の差し出した両手の前にまで来た壺を乗せた葉っぱが、お辞儀みたいな動きをした。そうなると当然ながら壺が下がって、瑞葉の手の上にころりと、紫色のまあるい物が落ちる。
「緑の祝福と呼ばれる、飴玉みたいなものだ。美味いぞ。瑞葉に祝福を落としたのは緑の番人と呼ばれている魔物の一種だが、詳しくはよく分からない。時折人間の前にあらわれては祝福を落としてくれる」
「祝福・・・番人・・・え、これ食べられるんだ」
「ああ」
食べ物なのか。飴玉と言っていたけど魔物っぽいヤツの妙な壺から出てきたのに。
でもアディも壺を乗せた葉っぱ、番人も瑞葉の事をじっと見ている。番人なんか目も鼻も口もないのに見られている気がする。
「わ、分かったよ。イタダキマス!」
食べるしかないじゃないか。口を開いて、えいやっと紫色の飴玉みたいなのを放り込む。そうしたら、飴玉だと思ったのに口の中で直ぐにふわりと溶けてしまって。
「・・・美味しい。すっごい、美味しいよ、これ」
優しい甘さと色の通り、ブドウの味がしてとても美味しい食べ物だった。
ほう、と感心したら後ろで見ていたアディが小さく笑って、番人は壺を動かして頷く動作をすると、消えた。ぱっと、空気みたいに消えてなくなった。
「祝福を摂取したら番人は消える。朝から良いものを見られたな」
「良いものなの?」
「ああ。番人が人の前にあらわれるのは滅多に見られない。誰の前にあらわれるかも分からない。私が前に祝福を落とされたのは数ヶ月前だ。これでも頻度が多い方になる」
「俺、ラッキーだったみたいだね。そんなにレアなんだ、番人、さん?」
「レアだな。それも極上の。ではそろそろ部屋に戻って着替えようか。ネアが朝食を用意してくれているだろうし、番人の話をすれば喜ぶ」
「そうなの?」
「それだけ希少度が高いと言う事だ」
そんなになのか。確かに数ヶ月前に見たきりなら頷ける。
それにしても美味しかったけど、口の中で溶けたら後味が全くないし次を強請る気持ちも湧かない、不思議な食べ物だった。

アディに軽く背中を押されてテラスから瑞葉の部屋に戻って、朝の支度をする。
服は昨日と同じ感じでシャツの色が違うくらいだ。朝のお手入は朝食の後、外でするそうなので顔を洗って下に降りる。
「あれ、話し声がする。ネアと、アディ、じゃないや。誰かいるのかな?」
大きい屋敷だし誰か他の人がいても変じゃない。
リビングの扉を開けて中に入って、荷物だらけの通路を歩きながら奥のキッチンへ向かえば思った通り、私服のネアと知らない人がいた。
黒い耳と毛の長そうな、くるくるしてる尻尾の人が座っている。ネアと同じくらいの年齢に見える男の人で、真面目そうな感じだ。
「おはようございます、瑞葉。良く眠れましたか?何だかテラスから声が聞こえましたけど」
「おはよう。良く眠れたよ。声については後で話すよ。ええと」
まずは見知らぬ人からだ。ネアに挨拶しながら促せば黒い耳と尻尾の人が立ち上がって綺麗なお辞儀をしてくれる。
「ああ、はじめてですよね。これは、クイル。僕達兄弟の補佐をしてくれている人です。主に書類関係と、家の細かい事なんかの取り仕切りなんかもしてくれている有能な人ですよ。かなり生真面目ですけど」
「最後の一言は余分ですが、自覚はあるので仕方がありませんね。はじめまして、おはようございます、瑞葉。私はクイル。リネ様の言った通りの人間ですので紹介はいりませんね。貴方の補佐も私の仕事に含まれますので、どうぞ宜しくお願いします」
「は、はい・・・よ、よろしくね」
見た目通りの生真面目な人みたいだ。でも表情が柔らかいしくるくるの尻尾が優しく振られていて、瑞葉を歓迎してくれているのが分かる。ネアの尻尾も機嫌良さそうに振られていて、瑞葉に椅子を引いてくれる。
「俺も手伝うよ。食器くらいなら出せるし」
「そうですか?ではそっちの棚から皿を四枚と、カップもお願いしますね」
「うん」
座って待つのも申し訳ないからと手伝いを申し出ればネアの耳が嬉しそうにぴくりとする。嬉しいと思ってくれているなら瑞葉も良い気分だ。
機嫌良く尻尾を振りながら簡単な手伝いをしていればアディも降りてきて椅子に座る。
「瑞葉は気遣いのできる良い方ですね、アディ様」
「そうだな。お前は絶対にキッチンでは動くなよ」
「そうですよー。クイルは動いちゃ駄目ですからね。そこで朝食が出るのを待っていて下さいね。瑞葉、気にする必要はありませんよ。あの人、仕事はとてもできるのになぜかキッチンと相性が最悪なんです。もし僕や兄様がいない時にキッチンで動こうとしたら何としても止めて下さいね」
「言われずとも手は出しませんよ。例え仕える主人にもてなされようとも絶対にです」
生真面目なクイルはそう言う人でもあるのか。仲の良いやりとりを微笑ましく思いながら四人で話していたら朝食もできあがった。
朝食は暖かいパンと取り分けて食べる短いパスタ。それに野菜たっぷりのスープと飲み物だ。ジャムも沢山並んでいて、全部ネアの手作りとの事だ。
本当に料理が趣味なんだなあと美味しく頂きながらテラスで出会った番人の話になる。やっぱり珍しい希少な魔物みたいで、ネアは一ヶ月くらい前に、クイルは数年前に出会ったきりだと驚いている。
「僕は割と頻度が高い方なんですよ。兄様もですけど。普通はクイルみたいに数年に一度なんです、番人に祝福をもらうのって」
「そんなにレアなんだ、あの葉っぱ・・・番人さん。何で祝福をくれるのかって分かってるの?」
「誰も知らない。だが祝福だとは昔から言われている様でな。皆が知りたがってはいるのだが、出没する頻度の条件がそれこそ分からない。謎の存在だ。あの祝福もな」
「あれねえ。美味しかったよ。でも不思議な感じもしたね。また会えるといいな。面白かったし」
「そうだな」
あの祝福は美味しいだけで特に力が増すとか健康や美容に良いとかではないらしい。
ただ美味しさだけをくれる魔物と言うのも変な存在だけれども、思い出してみれば仕草は面白かった。また出会えれば良いなと軽く尻尾を振れば皆が頷いてくれる。
滅多に会えないけど人気のある魔物みたいだ。




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